1年で聖書を!
◆ 詩篇23-25
◆ 使徒21:18-40

 
神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。―詩篇71:5


エルサレムからエリコへつづく古代の道は、ユダの荒野の狭くて危険な深い峡谷沿いに通っていました。その地の名前はワディ・ケルトですが、詩篇23篇が霊感によって生まれた場所なので、「陰の谷」として知られています。しかしそこは、ダビデの希望の詩とは縁もゆかりもないような有り様です。荒れた不毛の地で、危険な絶壁がそびえています。強盗には好都合でしょうが、普通の人にとっては実に嫌な所です。
 

実際のところ、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」(4節)と書いたとき、ダビデはわざわいにつきまとわれていました。しかし彼は、恐怖に押し潰されてはいません。彼の希望は、安全に通過できるように、神にわざわいを取り去ってもらうことではありませんでした。神のご臨在があることによって、困難なところも自信をもって通り過ぎていけると、ダビデは語っています。神に見捨てられてしまう心配がないからです。彼は詩篇の別の個所で、主が望みだとも語っています(詩71:5)。

多くの人は希望があると言っていますが、その希望が確かだと宣言できる人は、キリストが希望だという人だけです。希望は、より良い環境や力や知性などによってもたらされるのでなく、主によってもたらされます。希望を約束する権利は、天地の造り主であるこのお方だけがお持ちです。また主は、その約束を果たす力も持っておられます。 (Julie Ackerman Link)

クリスチャンにとって希望は確実なもの。なぜなら、その根拠はキリストなのだから。