1年で聖書を!
◆ エゼキエル書5-7
◆ ヘブル12
聖書のみことば Ⅱテモテ2:20-22

 
義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。―Ⅰヨハネ3:10


私たちは手を洗って汚れやばい菌を落としますが、実は、それをしているのは「私たち」ではありません。厳密に言うと、それは「石鹸」であり「水」です。しかし手をきれいにしようとしたのは「私たち」であり、そのために「石鹸」や「水」は使われます。

使徒パウロはテモテへの手紙第二2章21節で、「ですから、だれでも自分自身をきよめ…その人は尊いことに使われる器となります」と語ります。私たちは、自分で自分の罪をきよめることはできません。私たちは、私たちの罪ために十字架にかかられたイエス・キリストによって「洗浄」され、これによってきよめられるのです。
 

ピリピ人への手紙3章9節は、私たちは「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる」と語っています。
 
キリストを受け入れるなら、キリストの死と復活が、私たちを罪の報いと罪の力から解放してくれます。そして、あることには「ノー」と言い、別のことには「イエス」と言えるようになります。「肉の欲」、「若い時の情欲」(Ⅱテモ2:22)には「ノー」と、「義」(正しい行い)と「信仰」(正しい信念)と「愛」(正しい対応)と「平和」(正しい目標)には「イエス」と言えます。

日々きよめられるなら、私たちは「主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うもの」(21節)になることができます。

(Albert Lee)

正しい考え方が、正しい生き方につながる。