◆ 詩篇63-65
◆ ローマ6
自分の祈りを恥じるときがあります。中身のない決まり文句が、ついつい口をついてしまいます。それは、親しい人に言葉を選んで心を伝えるというものではありません。困ったものだと思う(そして、神を不機嫌にさせてしまっているかもしれないと思う)のは、「主よ、ともにいてください」という言い回しです。神は決して私を離れないと聖書で約束しておられるのに、私たちがこう祈ってしまうことです。
ヨシュアがイスラエル人を約束の地に導こうとしているとき、神は「あなたとともにいよう」と約束されました(ヨシ1:5)。ヘブル人への手紙の著者もまた、神がすべてのクリスチャンに「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と語られたと述べています(ヘブ13:5)。両方とも、その文脈が示唆しているのは、神のみこころを成すための力は必ず与えられるということです。私は往々にして「神がともにいてくださり、私の願いがかないますように」と祈っているような気がするのですが、それは正しくありません。
おそらく、よい祈りとは次のような祈りでしょう。「主よ、内住の聖霊を感謝します。聖霊さまが、あなたが望まれる道を指し示してくださり、ありがとうございます。どうか、私を助けてください。あなたの嫌がるところに、あなたを連れていこうとしませんように。私の思い通りになるように協力して欲しいと、あなたにおねだりしませんように。へりくだってあなたに従い、あなたのみこころに従うことができますように。」
私たちが主のみこころを行うとき、主は、わざわざ頼まなくても一緒にいてくださいます。一方、主のみこころに従っていないなら、主に赦しをこい、方向転換をして主に従わなければなりません。
思慮のない祈りではなく、神のみこころを心に留めた祈りをすることができますように。