忙しすぎる
◆ イザヤ書41-42
◆ Ⅰテサロニケ1
飛行機の搭乗を待っていたとき、私が牧師だと小耳に挟んだ人が、話しかけてきました。彼はキリストを信じる前の人生について語り、それは「罪と自己陶酔」の日々だったと言いました。しかし、彼はイエスと出会ったのです。そして、自分の生活がどれほど変わり、どれほどの奉仕をしてきたかも語ってくれました。それは興味深い話でした。しかし、彼の話は、神のために非常に多忙だったということで、神と非常に親しく交わってきた、というものではありませんでした。それで、「先生、正直なところ、なぜ、こんなにも心が満たされていないのだろうと思うのです」という質問には、少しも驚きませんでした。
精根尽き果て
◆ イザヤ書39-40
◆ コロサイ4
私が10代の頃、父と一緒に狩猟や釣りに出かけました。それは幸せな思い出ですが、一度だけヒヤリとする体験をしました。そのとき、私たちは車で高い山に登り、人里離れた場所にテントを張ってキャンプをしました。 そして、長い山道を下って、渓流釣りに出かけました。炎天下の中、私たちは長時間、魚を釣っていました。そろそろテントに戻る時間になって山道を登り始めたとき、父の顔がどんどん青ざめていきました。そして、めまいと吐き気にも襲われ、身体に少しも力が入らなくなりました。
戦争の代価
◆ イザヤ書32-33
◆ コロサイ1
もし、戦争撲滅・世界平和の名のもとに行われた歴代の戦争の犠牲者が、4列になってロンドンの戦争記念碑の前を行進したら、全員が通り過ぎるのに7日間かかるのだそうです。第一次世界大戦のドキュメンタリー番組の解説で、そのように語られていました。これを聞いて、戦争の恐ろしさにぞっとしました。莫大な戦費、土地や建物の破壊、そして経済活動の停滞は大きな損失ですが、それとは比べ物にならないほどの人的被害が戦争にはつきものです。軍人も民間人も命を落とし、限りなく多くの人たちを悲しませます。戦争の代価は非常に高いのです。
選択の自由
◆ イザヤ書30-31
◆ ピリピ4
米国最大の大学フットボールの試合が、2011年にはユダヤ教の大切な祭り、ヨム・キープルに行われることになりました。それを知ったテキサス大学の学生会は、大学側に日程を変えるようにと嘆願しました。長年の宿敵オクラホマ大学との試合の応援に行くか、それとも大切な聖日を守るかという二者選一を、ユダヤ教徒の学生に迫るのは不公平だからというのがその理由でした。しかし、試合の日程は変わりませんでした。宗教の自由が認められている社会で暮らしていても、各人の信仰が試され、難しい選択を迫られることは必ずあるものです。
笑いは禁物
◆ イザヤ書28-29
◆ ピリピ3
写真を撮ってもらう時は、笑顔を作るのが普通です。しかし、アメリカには、笑顔の写真を運転免許証に採用しない州があります。盗んだ個人情報を使って免許証を作ろうとする人がいるので、陸運局では、写真の人物が過去に登録された人と同じではないか、コンピューターで厳しくチェックしています。もし、写真の人物が偽名を使っていると見なされると、警告がオペレーターに送られます。ある州ではこうして、1999年から2009年の11年間に、6千件の免許証偽造を食い止めました。しかし、なぜ笑顔の写真がいけないのでしょう。その理由は、無表情の顔のほうが、コンピューターの識別能力が高まるからです。