C.S.ルイスは、「神は、私たちが楽しいときにはささやきかけ、良心には語りかけられます。しかし苦しみにおいては、叫んでおられます。苦痛は、耳を塞いだ世界を呼びさまそうとする神のメガホンです」と記しています。苦しみは往々にして、己の焦点を見直させます。目下の状況から思いを転じ、神に耳を傾け、「私の人生にどんな御業をなさっているのですか」と問いかけます。平穏な日常生活が、霊の学び舎に変わります。
詩篇の作者は、苦境にあっても謙遜に学ぶ心を失いませんでした。苦難を神からのものと受け止め、服従して「あなたが真実をもって私を悩まされたと知っています」と祈りました。預言者イザヤは、苦しみを鍛錬のプロセスと捉え、「見よ。わたしはあなたを練った…わたしは悩みの炉であなたを試みた」と預言しました(イザ48:10)。ヨブは嘆きながらも、自分の苦悩を通して、神の主権と偉大さを学びました(ヨブ40-42章)。
苦しむとき、私たちはひとりではありません。人となられた神が、大いに苦しまれました。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残され」たのです(Ⅰペテ2:21)。手に釘を刺されたお方はそばにおられます。苦しみの時、慰め諭してくださいます。
主よ、人生にはとても大変な時があります。この試練に、どんな目的があるのか分からないこともあります。主よ、助けてください。あなたを信頼できますように。教えてください。あなたのみこころにかなう者になっていけますように。
試練という学び舎で、私たちは神への信頼を学ぶ。