英語には、「きしむ車輪は油をさしてもらえる」という有名なことわざがあります。私は自転車通学をしていたので、その意味がよく分かります。

ルカの福音書18章で、やもめは裁判官に執拗(しつよう)に訴えましたが、これこそ「きしむ車輪」にあたる行為で、彼女はついに必要を満たしてもらいました。イエスはこのたとえ話で、祈りがすぐに答えられなくても、あきらめずに祈りつづけなさいと教えられました。

神は当然、不正な裁判官のように、しつこく言わなければ動かない方ではありません。私たちを心にかける優しい天の御父で、私たちの呼ぶ声に敏感です。しかし、不変で忍耐強い祈りは、私たちを主に近づけます。自分はきしんだ車輪のようだと思うかもしれませんが、主は、私たちの祈りを歓迎し、真摯な願いをもって神に近づきなさいと励ましてくださいます。そして、祈りを聞かれ、思いがけない方法で助けてくださいます。

イエスがマタイの福音書6章5節から8節で教えられたように、不変の祈りとは、呪文のようにくどくど祈ることではありません。むしろ、私たちの必要を、神の御前に日夜ささげ(ルカ18:7)、それをすでにご存じのお方と共に歩みながら、神を信頼し、神の応答を忍耐強く待つことです。