百聞は一見に如かずと言いますから、カメラやビデオの発明後にイエスが来られたなら、もっと多くの人が信じたのではないでしょうか。しかし、ラビ・ザカリアス牧師は、そうではないと言います。彼は、言葉は何千枚もの写真に勝ると言い、その例としてクラショーの詩の一節、「意識ある水は自らの主を見て頬を赤く染めた」を挙げました。たった一行でイエスの最初の奇跡(ヨハ2:1-11)の神髄が示されました。大工が水を葡萄酒に変えることはありません。水はイエスが己の創造主だと分かったのです。

またイエスは、「黙れ、静まれ」と言葉で嵐を静められ、弟子たちは驚いて、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と言いました(マコ4:39、41)。後にイエスは、群衆が賛美しなければ石が叫ぶと語られました(ルカ 19:40)。石でさえ、イエスが主だと知っています。

ヨハネは、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た」と語ります(ヨハ1:14)。また、その実体験から、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と書きました(Ⅰヨハ1:1)。私たちも自分の言葉を使って、主イエスを人々に紹介することができます。