我が家に泊めていた客に「ちょっとした洗濯物はありますか」と尋ねたところ、彼の目がパッと輝き、そばにいた娘さんに言いました。「汚れ物を出しなさい。エイミーさんが、私たちの洗濯物を洗ってくださるそうだ。」私は、ちょっとのつもりが大仕事になってしまったと気づきながら、微笑みました。
その洗濯物を干しながら、朝に読んだ聖書のみことば、「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリ2:3)を思い出しました。パウロはピリピの人々に対し、互いに仕えることを通してひとつになり、キリストの召しに値する生き方をしなさいと勧めました。パウロは、迫害されているピリピの人たちがひとつ心になることを願いました。キリストとひとつにされたゆえに生まれた一致、互いに仕え合う行為によって表された一致は、信仰を堅く保つ力をくれるに違いないと思っていたからです。
見返りを求めずに愛すると言ってみたところで、その愛が実際に行動で表されなければ、本当の心は分かりません。不平を言いたい衝動に駆られても、キリスト者としてすべきことは、清い心で友への愛を行動によって示すことです。
神の栄光のために、家族や友人、隣人へ仕える方法を考えてみましょう。
ルカの福音書22章22-27節、特に、「しかしわたしは、あなたがたの うちにあって給仕する者のようにしています」を読んで、 イエスに倣って仕えるとはどういうことか考えましょう。
互いに仕えると、私たちはひとつになれる。