ここ数年で親族のふたりが大きな病気を患いました。彼らを看病する上で最も大変だったのは、常に先が見えないということでした。私たちは医者の明確な言葉を期待しましたが、物事はそれほど単純ではありません。白か黒かではなく、もう少し様子を見ましょうということがしばしばでした。不確実性というのは大きな重荷です。次の検査でどうなるのだろうと常に不安でした。死が私たちを分かつまでに、どれだけの時間があるのでしょう。ガンのような病気は、私たちが死に逝く存在だという現実を突き付けます。人はいつかこの世を去っていきます。

粛然たる死の必然性に向き合うとき、モーセのように祈らずにはおられません。詩篇90篇は、私たちの命は、朝に咲いていても夕べにはしおれ枯れる草のようだが(5-6節)、神のみもとという永遠の住まいがあると述べています(1節)。私も自分の日を正しく数えさせてくださいと願います。そうすれば賢明な決断ができるでしょう(12節)。そして、神のためと思って行動した私の行為が価値あるものとされ、この短い人生を実り多いものにできるでしょう(17節)。この詩篇は、結局のところ、私たちの希望は、医者の診断にではなく「永遠から永遠なる」神の内にあることを教えてくれます。