Month: 10月 2018

福音を説明するための4つの方法

*救いのABC

Admit(あなたが罪人であることを認めること)

   「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ロマ3:23)。

Believe(キリストを信じること)

     「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使16:31)

Confess(自分の信仰を告白すること)

       「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ロマ10:9-10)

*ローマ人の道

ローマ人への手紙3:23<人間の困窮>

  「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」

ローマ人への手紙6:23<罪を犯した罰>

      「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

ローマ人への手紙5:8<神の備え>

 「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

ローマ人への手紙10:9-10<人間の応答>

 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

*神があなたに知ってもらいたいと思っておられる4つのこと

1.神がご覧になるあなたの窮状

 イザヤ64:6、エレミア17:9、ヨハネ3:3、ロマ3:10-11、23

2.あなた自身に救う力がないこと

 箴言14:12、ヨハネ14:6、使徒4:12、ガラテヤ2:16、ヤコブ2:10

3.あなたの窮状に対する神の備え

 イザヤ53:6、ヨハネ3:16、IIコリント5:21、Iペテロ3:1

4.あなたの必要を満たしてくれる神の約束

 ヨハネ10:28、ピリピ1:6、ヘブル7:25、ユダ24節

そういうわけですから、......悔い改めて、神に立ち返りなさい。(使3:19)

主イエスを信じなさい。(使16:31)

今日、決意しなさい。(ロマ10:9-10)

*永遠のいのちへの架け橋

私たちはみな罪を犯したので(ロマ3:23)、肉体的には死ぬことが運命づけられているだけでなく(ロマ6:23)、霊的にも死んだ状態であり、神から切り離されています(エペ2:1-4)。

イエスは、十字架上で死なれたとき、私たちの罪をその身に引き受けられ、罪の代償を支払ってくださいました(ロマ4:25; 5:8、Iコリ15:3)。私たちの代わりに苦しまれ、死なれたことによって、イエスは①私たちが神の義となることを成し遂げられ(IIコリ5:21)、②罪人と聖なる神との和解を可能なものとしてくださいました(Iヨハ2:1-2)。

他の人々をキリストへと導く

私は19歳のときに、街頭や刑務所、老人ホームなどの小さな集まりでの伝道を始めました。人の前に立って語るとき、私は何かしら恐怖感を覚え、人々をキリストへ導くのだと考えると、緊張のあまり体がこわばりました。私は聖書の真理を理解し、自分の救いについても確信を持っていたので、なぜそれほどの恐れを感じるのか不思議でした。

後にわかったことですが、私の心配は全く必要のないものでした。最初にある人をキリストへと導く手伝いをしたとき、すべてがスムーズにいきました。自分の考えに頼って生きていた人が、イエス・キリストに信頼を置けるように手助けしただけです。彼の場合、罪について説明する必要もありませんでした。すでに自分が罪人であることを十分に知っており、その罪を神に赦していただいて、自分を変えていただきたいと願っていたからです。ですから、私の役割はほんの小さなものでした。実際、私が手助けをしなくても、彼はきっと神との和解を見いだしていたことでしょう。

  • 基本を知ること

誰かをキリストへの信仰に導くという喜びを味わいたいなら、いくつかの基本的な真理をしっかりと頭に入れておく必要があります。それについては様々な言い方があると思いますが、下記の4つに要約することができるでしょう。

1.すべての人は生まれつき罪人であり、神の前に有罪判決を受けている。

2.すべての人は、 自分の力で自分を救うことはできない。

3.神は愛のうちに、イエス・キリストを通して、罪人たちに救いを与えてくださった。

キリストは、人間の家族の一員となり、罪を犯すことなくこの世の生活を送り、私たちの罪のために、十字架上の死を遂げられた。

4.救いは個人的な事柄であり、救われたいと思っている人が自分で心を決めなければならない。神は、死からの復活をもってイエスの犠牲の死を受け入れてくださった。したがって、自分の罪を認めイエスを信じる人は誰でも、神の子どもとして受け入れられる。

これらの大切なポイントを指し示す聖書の個所は、伝道用トラクトなどによく引用されています。(38~40ページには、それを掲載しています。)これらのトラクトなどを使う前に、まずあなたがこのポイントについてよく理解しておくようにしてください。そうすれば、個人個人の問題に対して臨機応変に対応できるでしょう。

  • アプローチの仕方はケースバイケースで

伝道しようとする相手が、すでに自分が罪人であることを確信していて、自分の力では何もできないことを知り、赦していただいて変わりたいと思っているのであれば、これらのポイントについては省略して、神が罪人のために救いを備えておられること、ただ信仰を通して恵みによって救われることを示すところから始めればいいでしょう。

一方、もし、自分が罪人であり自分を救う力もないということを認めたくない人の場合であれば、3つめ、4つめのポイントである、神からの備えや恵みのみによる救いの栄光については、まだ伝えない方がいいでしょう。また、もし、すべての人が罪に陥っていて、ただイエスによってしか神に到達できないということを受け入れられない人の場合、この4つのポイントから救いについて説明するという方法では、何の成果も得られないでしょう。

つまり、すべての人に同じアプローチが通用するわけではない、ということは明らかです。パウロが牢の看守に対して伝道した方法(使16:27-34)は、ピリポがエチオピヤの宦官に対して行った方法(使8:26-39)とは違いました。

さらに、何を言ってもイエス・キリストを信じようとしない人がいるという事実も、受け止めなければなりません。ペリクスもその妻ドルシラも、アグリッパもフェストも、パウロが熱心に真理を解き明かすのを聞きましたが、皆、信じることを拒みました(使24-26章)。このように、何が何でも信じないという人に巡り合っても、必要以上に攻撃的になることはありません。礼儀正しさを忘れず、そういう人たちの心の中にも神が働き続けてくださることを祈ってください。

自分の真価をはかってもらうために、喜んで神の前に立とう、という人がいたとします。そのような人には、こう言うこともできます。「慈悲よりも正義を...というわけですね。でも私は、正義は欲しくないです。だって私は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することからは、ほど遠いところにいるんですから。隣人をいつも自分のように愛することだってできません。もし自分が十分に善行を行ったかどうかに基づいて裁きを受けるのだったら、私は確実に地獄行きです。でも、キリストにより神が私を憐れんでくださることに、心から感謝しています。あなたもいつか、こう思うようになれるといいですね。」

堅固な障壁を突破する

未信者との間の沈黙は、どのように破ったらいいのでしょうか。霊的な障壁を破る方法はあるのでしょうか。それには、急がず、焦らずが肝心です。まず、相手と共通の話題を探し、それについて話をする時間を見つけましょう。相手との関係を築くことが先決です。あなたが誠実な人間であることを相手に示してください。聖人ぶったり、押しつけがましい話し方だと、未信者の興味を失わせてしまうことになりかねません。

けれども、遅かれ早かれ、あなたはそれまで話してきたことについて、相手がどう感じているのか尋ねることになるでしょう。そして相手の返答次第で、福音を分かち合う機会を得ることにもなります。次に、いくつかの例を示しましょう。

  • 道徳的な問題

何らかの状況から、道徳問題について話すことになったとしましょう。例えば、誰かが嘘をついたとします。そのときは、このように質問してもいいかもしれません。「嘘をついても良い状況ってあると思う?」あるいは、ある人がテーブルの上にセクシーな女性の写真が載った雑誌を置いていたとします。それを指摘して、こう尋ねてみてはどうでしょう。「雑誌にはどういったモラルがあると思いますか。」もし相手が、ヌード写真を見たところで何の害もないと言うのであれば、こう言ってみましょう。「それじゃあ、児童ポルノはどう思う?」これについては、おそらく誰もが間違っていると認めるでしょう。そのときあなたは、神が与えてくださった道徳規準について語るきっかけをつかんだことになります。

  • 困難な状況

私たちの周りには、悲しんでいる人や悩んでいる人がたくさんいます。例えば、新しい生活になかなかなじめない新婚カップル、癌だと告知された10代の子どもを持つ母親、これから心臓のバイパス手術に臨もうとしている会社の重役、工場閉鎖を告げられた労働者などです。こういった場合、まず相手を本当に心配してあげて、話をよく聞く必要があります。それから、何か励ましの言葉をかけてあげてください。あなたがその人のために祈っていることを伝えましょう。もし周りに人がいなければ、その場ですぐに祈ってあげるのもいいでしょう。祈ってあげるという申し出を聞いて、腹を立てる人はあまりいません。あなたが個人的にその人のことを心配しているとわかれば、次第に彼らもあなたに心を開いていくでしょう。あなたがどのようにして主を知るようになったかという証は、そうした状況のもとに置かれた人々にとっては、しばしば貴重なものとなるからです。

  • 家庭の問題

家庭の問題で深く悩んでいる人に出会うことがしばしばあります。そのような場合には、まず話をよく聞いてあげてください。いくつかの質問をすれば、その人と神との関係がどのようなものか推測できるでしょう。問題を抱えている人は、信仰を押しつけられそうだと感じなければ、自分から神について話したりします。ですから、やさしく、控えめにするように気をつけてください。こちらの意見を押しつけるようなことは禁物です。

つまり、相手に自分の抱える問題を話してもらうことができれば、信仰の証をするための突破口は見つけられるということです。心から相手の言うことに関心をもち、独善的な感じや見下した印象を与えなければ、さらにうまくいくでしょう。

フレンドシップ伝道

フレンドシップ伝道という言葉は、あまり耳慣れないかもしれませんが、決して新しい考え方ではありません。これは1950年代の話です。ひとりのクリスチャン男性はあるとき、ボブという名のヒッチハイカーを車に乗せました。ボブはシカゴのスラム街で育ったのですが、常に法に触れるような生活をしてきました。車に乗り込んできたときボブは、寒さに凍えそうになっていましたが、体が温まるにつれ、次第に神やイエスの話をするこの親切な男性に心を開き、自分の生い立ちを話し始めました。

話を聞いたクリスチャン男性は、この若者のために自分たち夫婦は何かしなければ、と確信しました。そして車を止めると公衆電話から妻に電話をし、客のために部屋を整えておいて欲しいと伝えました。

ふたりは、ボブを家に招き入れました。知り合いの奥さんは彼に文字の読み方を教え、 男性の父親は自分の工場でボブを雇いました。また友人のひとりは、ボブの仮出所請求の手続きのために、一緒にシカゴまでついて行きました。そうこうするうちに、ボブはクリスチャンとなったのです。そして昔の友達に、キリストを伝えるようになりました。こうしてボブと彼の友人たちは、霊的に、道徳的に、また実生活においても変えられていきました。

それもこれも、もとをたどればひとりのクリスチャンと彼の友達がボブを友として受け入れたところから始まったのです。

フレンドシップ伝道とは、新しく誰かと知り合って友だちになり、友情を築いた上でキリストを紹介するという伝道方法です。

それは福音を伝える、とても効果的な方法です。街で配布されるトラクトは受け取らないし、もらっても読まないという人、また直接的で決心を迫るような伝道を嫌う人でも、心を開いてくれるでしょう。宗教を毛嫌いしていて教会には行きたくないという人でも、いつかきっと話を聞いてくれるはずです。

もうひとつの良い点は、クリスチャンなら誰でもチャレンジできるところです。未信者の隣人や同僚と友達になることもできるし、また長年連絡していなかった親類や知り合いでもいいのです。

決して難しいことではありません。世の中は、淋しい人であふれています。彼らに手を差し伸べたら、きっと温かい反応が返ってくるでしょう。友達になってからいったいどう証をしようか、と悩む必要はありません。きっと、自然に言葉が出てくるでしょうから。

ある夫婦がこのような体験をしました。ふたりは近所に住む未信者の夫婦と友達になりましたが、内気なふたりは自分たちの信仰についてなかなか話すことができませんでした。ところが、ある日突然、その友人が言ったのです、「あなたたち、毎週日曜日に教会へ行くのね。ふたりにとって信仰はとても大切のようだし、信仰のおかげだと言えることが、きっとたくさんあるのでしょうね。私たちも次の日曜日に、一緒に教会へ行ってみたいわ。かまわない?」一緒に行ってもかまわないか?...その答えは、私たち皆が知っています。(ちなみにこのご近所の夫婦は、今では救われて教会の一員になっています。)

このような方法で福音が効果的に伝わるかどうかは、他の方法と同じように、あなたの人格や行動がどのような証をするかにかかっています。

私たちの存在

どんな言葉も、それを語る人の中身が伴っていてはじめて生きるものです。これは伝道においても当てはまります。未信者の友人に救い主を宣べ伝えようとする前に、まず私たちの人格が認められなければなりません。うわべや見せかけだけの親切でないことが、周囲から見てとれる必要があります。私たちの信仰が本物なら、それは必ずおもてに表れます。このことを肝に銘じておきましょう。キリストを心から信じたとき、私たちは霊的に生まれ(ヨハ3:6)、聖霊の住む宮となりました(Iコリ6:19)。私たちのうちには、イエスを墓の中からよみがえらせる力を持っておられる神が働いておられます(エペ1:15-23)。私たちはいま、イエス・キリストに似た者とされる過程にいます。目に見えない救い主を友人や知人が見えるようになるために、そうされているのです(IIコリ3:18-4:6)。私たちが聖書を読み、祈り、従うなら、聖霊は私たちを変え続け、救いの喜びを与えてくださいます。このようなことが、ほとんどのクリスチャンに見られるはずです。

いつもにこにこしていること、クリスチャン用語を上手に使えること、また教会の規則に従っているだけでは、聖霊の存在の証とはなりません。聖霊に住んでいただくためには、主とともに歩まなければなりません。聖霊は、キリストに従う者たちを満たしてくださいます(エペ5:15-21)。周囲の人々はそんなあなたを見て、信頼できる人だと思うでしょう。また、あなたの内に御霊の実、すなわち愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を見るでしょう(ガラ5:22-23)。それによって、彼らはあなたを尊敬するようになるでしょう。もしかしたら、そういうあなたを見て罪悪感を抱いてしまい、素晴らしいと思うのに疎ましく感じるような、複雑な感情を持つ人がいるかもしれません。けれども、そういう人々も心の底ではあなたを尊敬しているでしょう。あなたと友人になりたいと思っているかもしれません。

私たちの行動

伝道を成功させたいと思っているなら、2番目に重要な要素は良い行いをすること、つまり、損得抜きに善行をすることです。パウロは次のように私たちを励ましています。「私たちは、機会のあるたびに、...善を行いましょう」(ガラ6:10)。クリスチャンとして私たちは、やさしい微笑みを投げかけること、励ましの言葉を語ること、愛に満ちた気持ちで人を助けるという点で、他の人々に遅れをとってはいけません。近所のお年寄りのために庭掃除や雪かきをしたり、車の運転ができない人を病院やスーパーに乗せて行ったり、シングルマザーの手伝いをしたり...善い行いをするさまざまな機会を見つけ出しましょう。

親切な行動は新しい友情の扉を開き、それを保たせる力をもっています。真に聖霊に満たされた人は、自然とそのような行いをするものです。他の人を回心させるための、わざとらしい小細工はしません。ある少年は、そのことを父親から学びました。少年は、 隣の老夫婦のために雪かきをすることなど、ナンセンスだと思っていました。その老夫婦は、キリストへと導こうとする父のたゆまぬ努力に、ずっと抵抗し続けていたからです。だから少年は、父親の考えに反対しました。けれども父親は息子に、このような賢明な言葉を返したのです。「ボブ、これは伝道のためにしているわけじゃないんだ。彼らのために雪かきを君に頼んでいるのは、クリスチャンとしてすべきことだからなんだよ。」

その通りです。それは「クリスチャンなら、すべきこと」です。キリストのように生きるという実例のひとつなのです。それはまさに、種蒔きです。 私たちは善い行いの種を蒔き、神がその種を育て、収穫を生み出してくださいます。

私たちの発言

伝道において、私たちの言葉は重要です。もし、キリストを受け入れるようにと、あまりに性急に強い言葉で迫るならば、人は逃げ腰になってしまうでしょう。聖書の難しい教義を長々とまくし立てるなら、混乱させてしまうかもしれません。また、友人が入っている宗教をあからさまに批判するなら、怒らせてしまうでしょう。私たちは何とかして幾人かでも救うために、すべての人に、すべてのものとなった(Iコリ9:22)パウロのようでなければなりません。

  • 価値について述べること

まずここから始めるのが良いでしょう。説教くさくならないように注意しなければいけませんが、私たちの価値観がわかるような話をすることです。未信者の友人たちは、大切なポイントに気づくでしょう。すなわち、私たちが成功とは金持ちになることではないと思っていること、お金を儲けるよりも正直でありたいと願っていること、子どもたちの成績アップよりも人格形成のほうが大事だと思っていること、目に見える一時的なものではなく、永遠のものに重きを置いていることなどがわかるはずです。

  • 個人的な証

友情が深まり、ものごとについてどう感じるかを語り合うようになると、そのうち、主との個人的な交わりの体験について話す機会も生まれるでしょう。そのようなときには、主がどのように私たちの重荷を担ってくださったか、試みのときにどのように心の平安を与えてくださったか、私たちの祈りにどう答えてくださったか、不当な扱いをした人々に対する私たちの態度をどう変えてくださったか、話すことができると思います。

  • 聖書の学び

もし友人がさらに知りたいようなら、わかりやすくて生活に密着した、伝道的な聖書の学びに誘いましょう。冊子や手引き書を使う場合は事前に内容をよく確かめ、それを聖書の代用としないことに気をつけてください。

このような学びに誘うときには、まず正直であることが大切です。友人の質問に答えられないときには正直にそれを認め、誰か知っている人に聞いてみると約束することです。そして、その質問についてよく調べ、答えを持ち帰るようにしましょう。福音について聖書からしっかり学ぶことは、きちんと理解したうえで誠実な決心をするために必要です。

たいていの人は、いろいろな過程を経てキリストを受け入れるということを心に留めておきましょう。飛行機の中で乗り合わせた見知らぬ人からの一言や、偶然の出会いから導かれたという人もいますが、そういう人たちはたいてい、それ以前に準備段階として何らかの出会いがあったはずです。

カナダの有名な牧師、T.T. シールズ師はよく、健康な赤ん坊を産むには10ヶ月の期間が必要で、あまりに出産を急ぎすぎると死産になってしまうと言っていました。

「使徒の働き」から学ぶ

心が躍るとは、まさにこのようなことでしょう。使徒の働きを読むと、それを感じることができます。この書は、イエスの数人の弟子たちの話から始まります。彼らは、これから何が起こるのか、はっきりと知りません。しかし、ひとつのことだけは確信していました。それは、イエスが死からよみがえったということです。自分たちの指導者が生きていらっしゃる、という事実によって励ましを受け、彼らは大胆にも、イエスが十字架にかけられたばかりのエルサレムへと戻って行ったのでした。そして、イエスが昇天される前に与えられた指示に従って、聖霊のバプテスマと、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、さらには世界中でイエスの証をする日を、心待ちにしていました。

10日後、約束されていた出来事が起こりました。聖霊が下り、彼らはそれまで聞いたこともない国の言葉で神の素晴らしい業を語り、ペテロは力強い説教をし、それによって3千人もの人々が悔い改め、バプテスマを受けました。こうして、教会が生まれたのです。この小さな群れは、聖霊の力によって、イエスについての喜ばしい知らせを宣べ伝えはじめました。彼らは人々に、イエス・キリストはメシヤ(救い主)であること、 罪の贖いのために死なれたこと、そして死に打ち勝たれたことを告げました。

彼らの宣教活動は、歴史上もっともダイナミックな活動です。あらゆる障壁を取り払い、御霊の力を得て自発的にメッセージを伝え、前進していきました。彼らは神のご臨在の感覚をその行動に反映させ、お互いに対する愛を示したので、やがて罪人たちも彼らのところへ集まるようになりました。このような真実の福音宣教と生き方とは、私たちの良い手本となります。もし彼らを見習うならば、彼らが当時の世の中に与えたのと同じ影響力を、私たちも今の時代に与えることができるでしょう。

キリストの愛を実践する

使徒の働きの中には、「クリスチャンの互いの愛に影響されて、数多くの未信者がキリストのもとに招かれた」という明確な記述は見られません。 けれども、紀元1世紀の信者たちの愛が本当に素晴らしいものだったので、未信者たちにもそれがはっきりと見て取れたことは確かです。イエスも、弟子たちにこうおっしゃいました。「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハ13:35)。

初期のクリスチャンたちは、相互支援グループのようなものを作って生活していました。所有物も共有していましたし(使2:44-47)、未亡人がいれば援助もしました(使6:1-7)。ペテロが投獄され、処刑されることが決まると、彼のために皆が集まって夜を徹して祈りをささげました(使12章)。また、マケドニヤのクリスチャンたちは貧しくしいたげられていましたが、エルサレムの困窮している聖徒たちのために多額の献金を集めて、パウロを驚かせました(IIコリ8-9章)。パウロは、「使徒の働き」の時代に書いたコロサイ人への手紙の中で、すべての聖徒たちに対する彼らの愛について、神に感謝を述べています(コロ1:4)。この時代に、数多くの人々がキリストのもとへ集まったのも、うなずけることです。こうした信徒たちの愛は、それを見ていた未信者たちに対して実に雄弁にキリストを物語るものでした。

この共同体的生活は、しばらくの間続きました。 教父テルトゥリアヌス(紀元200年頃)は、異教徒がクリスチャンについて次のように言う言葉を引用しています。「彼らがどれほど互いに愛し合っているかを見よ...互いのために命さえ差し出そうとするほど愛しているのを。」彼は、この愛が人々にイエス・キリストを信じさせる大きな要因だと考えました。

そして、このような愛が感じられなくなると、福音の魅力も失われていくのです。テルトゥリアヌスより150年ほど後のジョン・クリソストムは、次のような不満をもらしています。

「愛がないことほど、異教徒をつまずかせるものはない。...彼らが自分たちの教義を捨てて、我々の教義を賞賛するようになって久しいが、今や我々の生活の仕方が彼らのつまずきとなっている。」

この批判は、今の私たちにも当てはまるのではないでしょうか。 私たちはしばしば、 友情について語ります。クリスチャン同士で楽しく過ごし、聖書研究会や祈祷会にも喜んで出席するかもしれません。けれども、それはたいてい自分と同じ社会階層の人とであり、そこに犠牲を伴う愛はありません。集会に出席するのも良いでしょう。ただし、それはギリシャ語の「コイノニア」、つまり使徒の働き2章42節で「交わり」と訳されている集まりとは違います。本当の「交わり」とは、犠牲を伴った分かち合い、すなわち、経済的に支え合うこと、互いの重荷を担うこと、互いの恵みを喜び合うことなのです。

もし、クリスチャンの間に新約聖書時代のような交わりが見られたら、未信者の人たちはどれほど感銘を受けるでしょう。もし、富裕層のクリスチャンが、豪邸や外車など自分のぜいたくのためばかりに大金を使うのではなく、貧しい人々の住む地域で細々と行われている働きに興味を示して協力するなら、未信者の人々はもっと福音に耳を傾けるでしょう。

1世紀の教会がこれほど急速に発展していった要因のひとつは、聖徒たちの一体感です。奴隷も主人も、同じ場所(通常、一般家庭)で礼拝をささげました。たしかに当時も、コリント人への手紙第1の11章17~34節に書かれているように、解決しなければならない問題がありました。けれども、真の交わりが行き渡っていたために、教会は飛躍的に発展を遂げることができたのです。

教会の裕福な信者たちが、経済的に困窮している兄弟姉妹を助けるとき、多くの者が救いへと導かれることは歴史が証明しています。私たちは、貧しい人々に対する自分たちの責任を思い起こそうではありませんか(ガラ2:10)。もちろん、だからといって、 大学のキャンパスでの伝道活動や、富裕層への宣教をやめよう、という意味ではありません。そのような伝道活動についても、神に感謝しなくてはなりません。しかし、「宗教活動は、貧しい人々の中から生まれた」ということが、教会史の研究者たちの認めるところです(Howard A. Snyder著, The Problem Of Wineskins, p.47より)。

貧しい人々の伝道活動は、そうでない人々が時間や能力、資金などを援助しているからこそ、効率よく行われています。ですから、こうした低所得者層のクリスチャンたちは、やがて経済的に余裕ができたなら、かつての自分の状態を思い出し、援助を必要としている人々に手を差し伸べなければなりません。イエスは、貧しい人々へ福音を宣べ伝える必要があることを、繰り返し強調されました(マタ11:1-6、ルカ4:18-21)。スナイダー(H. A.Snyder)は、 次のように説明しています。

「どのような教団であっても、貧しさから救われたという人々がつねに新しいメンバーとして加わり続ける必要がある。そのことが刺激となり、私たちを霊的に活性化させてくれるのだ。そして、教会が単一の社会階級や政治思想に偏って、しまいには妥協の道を歩み始めることから救い出してくれる。世俗的な面での相違が、かえって私たちをキリストにあってひとつに結びつけてくれるだろう(The Problem Of Wineskins, p.47 より)。」

初代キリスト教会の信者たちは、真の交わりを実践しました。彼らは、あらゆる階層の人々に愛をもって手を差し伸べ、すべての人々を受け入れられたキリストの模範に従いました。私たちもまた、そうすべきです。まず、貧困層を対象とした小さな働きから始める必要があります。それは簡単なことではないでしょう。小遣いを献金すれば良いという程度のものではないからです。また、人を雇えば済むというものでもありません。私たち自身の時間をささげなければなりません。また、手を差し伸べたい人々と親しくなるためには、個人的に交わっていく必要があります。新約聖書の時代に有効に働いた、この個人的に交わるという方法は、今日でも同様に効果を表すでしょう。

牧師トーマス・クーンと、オーストラリアで宣教師となったアール・クーンのふたりは、こうした努力によって生み出された成果と言えます。というのもこのふたりは、貧しい人々が多く住む街の店先で開かれた伝道集会で、主を知るようになったからです。この集会を開いたのはふたりのクリスチャンで、彼らは数人の信徒に手伝ってもらい、日曜日の午後、人々を集めて伝道集会を行いました。こうした努力は、まさにキリストの愛を実践した結果生まれたものです。

キリストの存在を映し出す

初期のクリスチャンたちが福音伝道で成果をあげた理由は、彼らの生活の中にキリストがおられたからです。彼らの人生が神に触れられたことは、周りにもわかりました。また、奇蹟が起こってキリストのご臨在が証されたこともありました。例えば、ペンテコステの日に起こった風のような音と様々な異言(使2:1-13)、「不思議としるし」(2:43)、癒しのわざ(3:1-10)、集会場所の振動(4:31)、神にうそをついたふたりに対する突然の裁き(5:1-11)、死者のよみがえり(9:36-43)、そして囚人の鎖からの解放(12:5-19)などです。

神は、キリストを宣べ伝える人々とともにおられる証として、このような数多くの不思議やしるし、癒しのわざを与えてくださいました。そして、使徒の時代が終わりに近づくにつれ、これらの表立ったしるしや不思議なわざは少なくなっていきました。それでも主は、ご自分の民の生活の中で、奇蹟を行い続けておられます。

主のご臨在の力は、癒しや救出など、主が超自然的に介入されるような場面に限られているわけではありません。目に見えるしるしが頻繁に現れた初代教会の時代ですら、イエスに従う者たちが、その苦しみを通して神のご臨在を示す、といった状況がしばしばありました。

神は、ユダヤ当局がペテロとヨハネを逮捕し、むち打つことをお許しになりました (使5:22-42)。また、ユダヤの議会がステパノに石を投げつけて殺すことを許されました(7:54-60)。タルソのサウロに、信者たちを逮捕させ、投獄させました(8:1-3)。ヘロデが使徒ヤコブの首を切ろうとしたとき、それを止められませんでした(12:1-4)。

使徒の働きに記されている時代には、パウロが何度もむち打たれることや、石で打たれること、死んだものとして放置されること、3回の難破、度重なる飢えや寒さに凍えること、そして自分で「肉体のとげ」と呼んでいる肉体上の苦痛に悩まされることも、 神はお許しになりました(Ⅱコリ11:1-12:10)。しかしこのような状況にあっても、神のご臨在の力は現実のものとして示されました。それは、神が超自然的な方法で介入されたときと全く同じでした。

ユダヤの議会がステパノを審理し、神への冒涜(ぼうとく)罪で有罪判決を下したとき、彼が人々の心に与えた影響を考えてみてください。「彼の顔は御使いの顔のように見えた」(使6:15)。ステパノは自分について弁明したあと、彼らがメシヤ(救い主)を殺したことについて、議会を非難しました。聖書には、議会の人々はそれを聞いて激怒して「ステパノに向かって歯ぎしりし」(7:54)、「大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した」(7:57-58)と書かれています。彼らがステパノを石で打ったとき、ステパノが死ぬ前に言った最期の言葉は、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」(7:60)というものでした。

パウロとシラスが、ピリピの看守や囚人たちに与えた影響を考えてみてください。背中はむち打たれて傷つき、足には足かせが掛けられていましたが、パウロとシラスのふたりは祈り、神への賛美の歌を歌いました(使16:23-25)。その声に「ほかの囚人たちも聞き入って」(25節)いました。ですから獄舎の扉が開いたとき、囚人たちがみな逃げずに留まっていたことも、その夜、看守とその家族が救われたということも、納得がいきます。彼らは、パウロとシラスとともにいることで、神のご臨在の場にいると感じたに違いありません。

それと同じように、私たちの生活の中でも、神のご臨在をはっきりと感じ取ることができるはずです。それはたしかに可能です。私の知り合いの牧師夫人は、以前とても大変な手術を受けるために入院しました。その時、同室の女性と話をしたのですが、その人は霊的な事柄にまったく興味を持っていないことがわかりました。そこで彼女は、自分の言葉による証が、術後の態度によって裏付けられますように、と祈りました。そして、その祈りは聞かれました。同室の女性とそのご主人は、どちらもクリスチャンとなりました。それは、ふたりの言葉によると「彼女の中に神が見えた」からでした。

ターミナル・ケアに携わっているあるクリスチャンの医師は、テレビのインタビューで次のようなことを述べました。「クリスチャンの患者が苦痛や死に直面したときの、確信に満ちた平安な気持ちを目の当たりにして、同僚の未信者の医師たちは深く心を動かされています。彼らは、奇跡的な回復については説明できても、苦しみ死に行く聖徒たちの中におられる神の存在については、説明がつかないと話します。」

アメリカ中西部のある大きな教会の役員は、彼が機関士をしていたときにひいてしまった男の子の母親の信仰を見て、キリスト教へと導かれました。

もちろん私たちは、こうした苦しみを通してばかりではなく、普通の生活の中でも神のご臨在を映し出すことができます。信仰を離れて、未信者と結婚していたある女性が、最近再び神のもとへと帰って来ました。ご主人は、彼女の変化に心を動かされ、自分も一緒に教会へ行くようになり、1年後キリストを救い主として受け入れるに至りました。その決心をさせたのは礼拝の説教ではなく、自分の妻の変化と、妻の中に見られたキリストの存在だ、と彼は言いました。今では、彼の両親も兄弟も救われています。彼の父親はこう述べています。「息子の人生に、神が何か素晴らしいことをしてくれたのだ、とはっきり言えます。そして、息子が手にいれた素晴らしいものを、私も欲しいと思ったのです。」

この超自然的なしるしが、必須条件です。そして、それはすべての信者のうちに見られるはずのものです。これはでっち上げたり、努力で生み出せたりはしません。自分自身では、気づきもしないものだからです。神に従って日々歩むなら、無意識のうちに、人の計画によらず御霊によって生み出されるものです。

キリストのメッセージを宣べ伝える

初代キリスト教会の信者たちは、イエスの喜ばしい知らせを言葉によるコミュニケーションで伝えました。力強い説教や未信者との熱のこもった議論、行く先々で語る自分たちの証です。このように彼らは、様々な方法で福音を宣べ伝えました。

  • 公の集会

初代キリスト教会のクリスチャンたちは、教会の建物を持っていませんでしたが、それでも大規模な公の集会を開いていました。ペンテコステの日には、激しく吹きつける風の音を聞いて集まった何千人もの聴衆に向かって、ペテロが力強く語り、およそ3千人の人々が主に立ち返りました(使2章)。ピリピも、サマリヤの大勢の群衆に向かって語りました(8:5-6)。パウロは、ダマスコ(9:20)、キプロス(13:5)、アンテオケ(13:15)、イコニオム(14:1-7)の会堂で説教し、成果をあげました。パウロはまた、アレオパゴスの丘で、心に残る語り口で呼びかけました(17:22-33)。

このように、1世紀には大きな集会で神のメッセージを伝えることによって、大勢の人々がキリストのもとへ導かれました。それ以来、集会での伝道は福音伝道の有効な手段とされてきました。今日でも、そのような伝達方法が福音伝道において重要な役割を担っています。テレビ、ラジオ、大規模集会、教会での集会に始まって、素晴らしい説教を呼び物とする野外礼拝に至るまで、数多くの人が自由に参加できる集会が催され、活発な伝道が行われています。

ただ問題なのは、今日このような集会に参加している大多数が、クリスチャンだということです。

未信者たちは、ほとんど参加していません。たとえメディアを使った宣伝を十分にしても、それほど多くの人を集めることはできません。そこに、私たちの役割があります。私たちは会衆の前で説教ができる訳ではありませんが、集会のために祈ったり、人を誘ったりすることはできます。

誘う、というのは、ただ礼拝が何時から始まるかを人々に知らせるだけではありません。もし私たちが本当に人の心を動かそうと思うならばその人と関わりを持たなければなりません。例えば、集会に誘いたい人がいたら、その人を夕食に招待して、それから一緒に教会へ行く、などというやり方です。このようにして、集会を直接運営する立場ではなくても、神のみことばを説教するという召命を受けた人を支え助けることができるます。

  • 規模の小さい私的な集まり

福音は、家庭での聖書研究会のようなアットホームな集まりにおいても宣べ伝えることができます。これも、宣教のひとつの形です。ギリシャ語で「ケルッソ」という単語は、会衆の前で演説するという意味であるのに対し、「エヴァンゲリゾ」(聖書の中で52回使われています)と「ディアレゴマイ」(13回使われています)は、より小さな集まりの中で良い知らせを伝え、キリストについて論じる、という意味を表しています。

初代キリスト教会のクリスチャンには、教会という建物がなかったことを思い起こしてください。彼らは、家庭で集会をもっていました(使2:46、5:42、18:7、20:20、ロマ16:5、ピリ2章)。このような伝道の方法は、演壇の上に立つことなく、キリストを指し示す素晴らしい機会を与えてくれるでしょう。

  • 一対一の福音伝道

福音のメッセージは、 個人から個人へと伝えることもできます。 れは、新約聖書でも様々なところで示されています。イエスはしばしば、一対一で人に関わられました。

例えば、ニコデモ(ヨハ3章)、サマリヤの女(ヨハ4章)、金持ちの若い役人(ルカ18章)などです。みことばを宣べながら巡り歩いた人々(使8:4)は、ごく普通の人たちで(使徒たちはそのときエルサレムに留まっていました)、福音を伝える方法はおそらく、ただ個人的に話をするだけだったでしょう。使徒の働きの著者ルカは、その後ピリポの説教について述べる際(8:5)、会衆の前での伝道であることを示すために、わざわざ別のギリシャ語の動詞を使っています。しかしそのすぐ後に、ピリポがエチオピヤ人の宦官に、一対一で伝道している様子が記されています(8:35)。

つまり、1世紀のクリスチャンたちは「伝達者」であったということです。大勢の集会で神のみことばを伝えた人たちもいれば、自分の家を集会の場所として使った人たちもいましたが、いずれにせよ彼らは、行く先々で喜ばしい知らせを語り伝えたのでした。

もちろん公の説教は、福音を伝道する上でとても大切です。今日においても、多くの優れた説教者が与えられているのは、本当に幸せなことだと思います。ただ問題なのは、教会へ行こうと思ったり、伝道集会に出席したり、テレビのクリスチャン番組にチャンネルを合わせたりする未信者は、比較的少ないということです。

ですから私たちは、家庭での小さな集まりをもっと有効に使わなければいけません。そしてかつてのクリスチャンのように、自分の置かれた場所がどこであっても、イエスを宣べ伝えていかなくてはなりません。

音と沈黙

いろいろな意味で、教会は沈黙の場所ではありません。様々な音楽が、会堂いっぱいに響き渡っています。熱の入った説教が、聖堂にこだまします。教会のあちこちが、人々の笑い声や話し声であふれています。けれども、こうした様々な音のただ中で、人々を不安にさせる静けさがあります。ジョン・ストットはそれを、「我々の罪深い沈黙」と呼んでいます。信者同士で頻繁に言葉を交わしているにもかかわらず、救いや平安というような信者が持っているものを切望している未信者に対しては、言葉をかけることがほとんどない。そんな現実が、いかに多く見られることでしょう。しかも、本当ならば私たちがそんな人々のもとに出向いて行かなければならないのに、私たちは逆に、彼らが教会に来ることを期待しているのです。

有能な教会設立者であり伝道師でもあるラルフ・ネイバー師は、自分の仕事に落胆していました。彼が設立した26の教会が、会堂を建て、牧師の生活を支えられるようになってから間もなく、教勢不振に陥ったのです。彼が伝道集会を催した大きな教会でも、出席者の中に未信者はほとんどいませんでした。これらの教会は「教会に来ていない人々と関わりを持とうとしない、地域の中で孤立した小さなクリスチャンの群れ」だという疑いが十分ありました。教会指導者も一般信徒も、未信者に手を差し伸べる余裕がなかったのです。

そこでラルフ・ネイバー師は、ある行動に打って出ました。それは、これまでとはまったく違ったやり方で教会を打ち立てようとする試みでした。まず手始めに、彼はいわゆる「ハッピー・アワー」(酒類が割引きになるサービスタイム)にバーへ行き、自分はソフトドリンクを飲みながら、ビールを飲んでいる未信者たちに話しかけたのです。

さらに、自宅の裏庭でバーベキューパーティーを開き、隣人たちを招待しました。また古家を借り、40人の教会員に手伝ってもらって、24時間体制で売春婦やその客引き役、薬物依存者などに伝道しました。第一段階として、彼らの社会復帰の手助けをし、その後、自分の家に招待したのです。ひとり、またひとりと、彼らはキリストのもとに来るようになりました。

これは、紀元1世紀のコリント教会で起こったことと同じでした。主のもとにやって来た人々の多くは、いわゆる下層階級の人々です。彼らのほとんどは、教育も受けておらず、貧しく、社会的には何の力も持たない人々でした(Iコリ1:26-31)。しかし彼らは、キリストの言われた条件を満たしていました。というのもキリストは、善良な人々ではなく、罪人を救うために来たのだ、とおっしゃったからです(マタ9:13)。その基準からすると、コリントの人々は十分資格を持っていました。彼らはキリストにある赦しといのちを見いだす以前は、不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男色をする者、盗む者として生きていました。(Iコリ6:9-11)。

悲しいことに、キリストの福音を携えて、しいたげられた人々に手を差し伸べる、という手本に私たちが従っていないという現実は、しばしば起こっています。実際、裕福な人々にも、貧しい人々にも、教養のある人にも、ない人にも、手を差し伸べてはいません。教会内では互いに喜びを分かち合っているのに、キリスト不在の(かつての私たちのような)人々に対しては、近づこうとしません。もしそれが事実であるならば、これこそが「我々の罪深い沈黙」なのです。

突き刺さるトゲ

本能的に「イタッ」と手を引っ込め、うめきました。人差指にトゲが刺さり、血が出ました。当然です。園芸用手袋をはめないで、トゲのある木を剪定(せんてい)しようとしたのですから。

祈りとチェーンソー

グラディスおばさんの大胆さには敬服します。ただ、その大胆さゆえに、私は時々心配になります。例えば「昨日、クルミの木を切り倒した」などとメールが来たときです。おばさんの家のクルミの木は、車庫の裏にあって、根が育ちすぎて車庫のコンクリートの床を突き破りそうでした。ですから、木を切り倒さなくてはなりません。しかし、76歳の叔母が、自分でチェーンソーを使ったというのです。ただ彼女は「大仕事に取りかかる前には、必ず祈るのよ」と言っています。

ひどい事も素晴らしい事も

恐れで凍り付くことがあります。過去に傷つけられた経験があり、今回もまた同じことになりそうだと感じるなら、当然恐ろしくなります。そして「私には、うまく対処する知恵も力も勇気もない。絶対にできない」と精神的に追い詰められます。