ヨブの試練
ある朝、10時に電話が鳴りました。それは、インディアナにいる長男のジムからでした。悲痛な声で、「デーブが撃たれた」と言うのです。泣きじゃくりながら話すジムのことばをつなぎ合わせ、やっと少し状況がわかりました。強盗が押し入ったばかりの店に私の末の息子のデーブがたまたま立ち寄り、両手を一発ずつ銃で撃たれ、病院に担ぎ込まれたというのです。
私たちはすぐさま、インディアナに駆け付けました 病院に着くと、息子の病室の前には警護の警官が付くという物々しさでした。入室を許されると、デーブが自ら事の次第を話してくれました。彼の不安な心を慰め励まそうと、詩篇の91篇を読みました。すると、10-11節に目が留りました。
「わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」
デーブが自分の傷口を指差して言いました。「でも、ボクのこれはどうなの?」
あなたを守ると約束された神への信仰が、試された瞬間でした。信じられない悲劇に矢継ぎ早に襲われ、人生最大の危機の中で、ヨブの信仰も私たちと同じように試されたのです。
1.所有物を失う
ヨブは、「東の人々の中で一番の富豪」と言われています(1:3)。ヨブ記の著者は、ヨブがそう呼ばれるにふさわしい人物であったことを説明します。古代社会では、人の富は羊や牛の数で測られました。そして、ヨブほど富んだ人はいませんでした。羊が7千頭、らくだが3千頭、牛が千頭、雌ろばが5百頭です。1万1,500頭の家畜を飼うのに、ヨブは広大な牧草地を所有していたでしょう。ところが、読み進むと、一日でそのすべてを失ったことが分かります。使いがヨブのところに来て言いました。
「シェバ人が襲いかかり、これを奪い、......神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。......カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い......。」(1:15-17)
ヨブの災難は、20世紀のある出来事を彷彿とさせます。1929年10月、株価が大暴落し、ウォール・ストリート最大の市場投資家たちが数時間のうちに破産したのです。
オフィスの窓から飛び降りた人もいました。ついこの間まで億万長者だった人々が、食事配給の列に並びました。何もかもが、一変してしまったのです。
M&Aだ、アウトソーシングだ、ダウンサイジングだなどという言葉が飛び交うこの時代、多くの人が職を失っています。このような危機に直面したクリスチャンはみな、それでも自分は神を信じるのかどうかを厳しく試されています。
しかし、富や持ち物を失うことは、ヨブにとってまだ最悪の事態ではありませんでした。
2.子どもたちを失う
膨大な数の家畜を所有していたヨブは、10人の子持ちでもありました。7人の息子と3人の娘です。仲の良い兄弟たちだったようで、定期的に祝宴を開き、互いの家に招きあっていました。7人の息子たちは曜日ごとに、それぞれの家で毎日宴会を開いていたと考える人もいます(1:4)。
ヨブは、子どもたちが祝宴のさなかに神に罪を犯すかもしれないと考え、朝早く起きて子どもたちのために祈り、彼らのために全焼のいけにえをささげました。家族の祭司の役を果たしていたのです。
その祝宴のさなかに悲劇が起き、10人の子どもすべてが失われました。使いがその知らせをこのように伝えています。
「荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。」(1:19)
ヨブは打ちのめされました。この世の終わりのように感じたことでしょう。まず財産が消滅し、いまやすべての子どもも取られました。
数年前のこと、私が牧師をしていた教会の役員から電話がかかってきました。彼の妹とその家族が、大事故に遭ったのです。水曜日の夜で、雨が降っていました。彼女は娘3人を連れて車で教会に行くところでした。教会の駐車場に入ろうとハンドルをきったところに、他の車が後ろから突っ込んできたのです。3人の娘全員が死亡し、母親だけが助かりました。その役員は、3人の姪たちのために弔辞を読むように頼まれましたが、ことばが見つからないと言って困り果てていました。
私は妻と葬儀に参列しました。この夫婦は、ヨブのように子どもをすべて失ったのです。数百人の列席者は皆、泣いていました。その日の午後、私は初めて、ヨブの苦悩がどれほどだったかを垣間見たように思いました。
そして最近、私は再びヨブが子どもたちを失ったことについて思い起こす機会がありました。日曜の夕礼拝で、ベス・レッドマンとマット・レッドマン作の「あなたの御名はほむべきかな」という賛美を全員で歌っていたときのことです。その歌詞には、喪失体験の理由や目的がわからなくても神を信頼し続けるのだ、という信仰の姿勢が現されていました。
あなたの御名はほむべきかな
日が射しているときに 世が平穏無事なときに
あなたの御名はほむべきかな
あなたの御名はほむべきかな
苦しみの道を行くときも ささげものに痛みが伴うときも
あなたの御名はほむべきかな
作詞者は、繰り返しの部分を書く前に、ヨブの物語を読んだにちがいありません。
あなたは与え あなたは取られる
あなたは与え あなたは取られる
でも私の心は言う
主よ あなたの御名はほむべきかな
これが、10人の子どもを失ってなお、主をほめる驚くべきヨブの応答でした。ヨブ記1章20~21節にはこうあります。
「ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』」
状況に左右されない、この深い信頼のことばを読むとき、私は 「ヨブよ。君には負けた」と言わざるを得ません。1963年から1979年までの間に、私の最初の妻の家族は、次々とガンに侵されました。まず義母を、そして義理の姉を失い、次に義父、そして1979年にはついに、妻までもガンで世を去りました。ひと家族全部を失ったのです。みなクリスチャンで、それも教会の指導者たちでした。
イエスが苦しみの中でゲツセマネの園に行かれたように、家族の苦しみの杯を取り去ってくださるように、私も神に願いました。にもかかわらず、それはかないませんでした。正直に言うと、私はヨブのように神への信頼を告白することはできませんでした。「どうして」とただ、泣き続けるのみでした。苦しんでいる人とその家族は、そのような問いを口にするものです。
とにかくヨブは、神への信頼を試される第一の関門を突破しました。そこで敵であるサタンは、さらなる災難をもって攻撃の手を強めることにしたのです。
3.健康を失う
全財産と子どもたちを失った後、ヨブはさらなる災難に見舞われます。それは、彼自身の健康へのサタンの攻撃です。ある日サタンは再び主と対話をし、そこでさらに主に詰め寄ります。
「サタンは主に答えて言った。『皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉を打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。』」(2:4-5)
主は、いのちには触れないことを条件に、サタンがヨブのからだに危害を加えることを許されました。
「サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。」(2:7-8)
サタンの二番目の攻撃について、デービッド・アトキンソン氏は言います。
「ヨブが直面しなければならないすべての試練に、病が加わった。神の許しにより、ヨブは悪魔からこの堪え難い忌むべき症状に悩まされている。足の裏から頭の頂までの痛みを伴う腫物(2:7)については、ハンセン氏病から象皮病にまで至るさまざまな病名が取りざたされている。彼は、重い皮膚病患者が行くところ、すなわち町の外の灰の中に行き、土器のかけらで自分の腫物をかいた。富んでいた者が、貧しい者となった。」(The Message Of Job IVP出版,1991年)
あなたには苦しんでいる家族がいるでしょうか。財産や子どもを失うという試練には遭っていなくても、健康を失っているかもしれません。もしそうなら、不安な気持ちで検査を受けるでしょう。医師から病気が見つかったという知らせを受けるなら、その人は恐らくこのようなことを考えるのではないでしょうか。
- なぜ自分が?
- なぜこんなことが?
- なぜ今?
たとえば、もしガンで闘病中の友人がいたら、化学療法や放射線治療を受ける度に、詩篇77篇の問いがその人の頭をよぎっているかもしれません。
「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。」(詩篇77:7-8)
疑問がわくのは信仰を試されているからです。試練の中にある本人はもちろん、その人を大切に思っている家族なら、当然そのように反応するでしょう。次に挙げるヨブの苦難は、さらなる心的打撃を与える試練です。
4.妻の理解を失う
ヨブの妻は、自分たち家族に次々と降りかかった災難に圧倒され、ひどく混乱したことでしょう。夫は、申し分ないほど立派な人で、よく祈り、家族を養い、守る人でした。ヨブのような人に、どうしてこのような悲劇が訪れなければならないのでしょうか。
マイケル・ホートン氏は「Too Good To Be True(信じられないほどに素晴らしい)」という著書で、信仰深い両親が見舞われた幾多の苦難に、ひどく混乱したと証しています。
「78歳の父ジェームス・ホートンは、良性の脳腫瘍と診断され、 緊急手術を受けた。......それが失敗に終わり、まもなく父には回復の望みがないことが知らされた。......家族の大黒柱になった母は、父のベッドの脇で15分おきに神経質に枕を直しながら、愚痴をこぼしていた。......そして、父の亡くなる2ヶ月前、母は自分の姉の葬儀で心のこもった弔辞を述べた。その帰途、私の運転する車の中で、母は突然、脳卒中の発作に襲われた。気丈で心の優しい母は、恵まれない子どもや、身寄りのない老人の世話に生涯をささげていたのだが、今や自分自身が人の手に頼る生活になった。......気弱になった私は、神は人生の最後の舞台でどうして最悪の場面を経験させるのか、といぶかった。......人のため、特に老人のために尽くしてきた人がこの世を去る時くらい、少し楽をさせてもらっても良いのではないだろうか。」(Zondervan, 2006年)
町の外の灰の山に座っている腫物だらけのヨブを見た妻には、 これと同じような疑問がつきまとったのではないでしょうか。もうたくさん......。それで彼女は言ったのです「神をのろって死になさい。」(2:9)
著名なイギリスの牧師G・キャンベル・モルガンは、家族が苦しむ姿を間近で見たことのある者だけが、ヨブの妻の心を理解できるだろうと言いました。病床にいる家族を愛すればこその叫びです。「あなたがこれ以上苦しむ姿を、私は見ていられない」という叫びです。
これはヨブにとって最大の試練だったでしょう。愛する妻の口からこんなことばを聞いたのですから。サタンはなんと悪賢いことでしょう。自分自身が言いたい言葉を、ヨブの妻に言わせたのです。あのヨブもとうとう降参かと、天使たちは天の欄干から身を乗り出して見物したことでしょう。
しかし、ヨブは悩む妻にこう答えました。
「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」(2:10)
ヨブの妻は神に対して腹を立てていましたが、神は私たちの怒りを受けとめられる方です。ヨブと妻とのこのような正直なやり取りは、むしろこの物語の信憑性を裏付けます。聖書の登場人物でさえ、神にもお互いにも怒りを抱くことがありました。
自分の財産や家族や健康を失ったことは、ことばにできないほどつらかったはずです。最初は信仰によって応答できていたヨブも、徐々に絶望の淵へと落ちていきました。
苦しみ、絶望している友を前に、私たちには何ができるのでしょう。どう声をかけるべきでしょうか。
…
サタンの攻撃
ヨブ記1章には、何千年も前に神とサタンとの間で交わされた会話が記録されています。この記録から、サタンについて多くのことを知ることができます。黙示録12章10節で、サタンは 「兄弟たちの告発者」と呼ばれますが、サタンがヨブ記1章でしたのは、まさしく告発です。彼は地を行き巡って、堕落した人類の失敗をつぶさに見たのです。
これに対して神はどう対応したのでしょう。神は敵サタンに対して、ヨブの生活を見て、その人となりに目を留めるように促されました。
「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にいないのだが。」(1:8)
追い込まれたサタンは、神はえこひいきをしていると責めます。ヨブの誠実さは本物ではない、彼とその家族の回りに神が祝福の垣を巡らした結果だというのです。ヨブは子だくさんで家畜も多く、裕福でした。望みうる限りのものをくれた神を拝まない者がいるのかと反論したのです。サタンは言いました。
「あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」(11節)
サタンがヨブから祝福を奪うことを神が許すとは、なんということでしょうか。そんなふうに驚くのは、当然のことです。しかし、数千年の時間を隔てて読んでいる私たちは、何度も読んでいるためにこの物語にショックを感じなくなっているのかもしれません。確かに、ヨブの命にはふれるなという線は引きました。しかし神は、それ以外は、サタンが思うようにすることを許されました。
サタンはこうして、ヨブの人生に苦難の嵐を巻き起こすのです。神とサタンとの戦いが原因で、ヨブは祝福の垣が壊されるという経験を余儀なくされました。この物語を読み進めるにあたって、ある重要なポイントがあります。それは、ヨブが1章のいきさつをまったく知らなかったということです。ヨブは、天での会話について知る由もありませんでした。フィリップ・ヤンシーは『神に失望したとき』で、こう言います。
「ヨブ記を推理劇、『誰がやったか』式の探偵小説と考えるとわかりやすいだろう。劇が始まる前、それを鑑賞する私たちは、こっそり内容を教えてもらうのである。監督が自分の作品を説明する記者会見に、私たちが早めに姿を見せたかのように(1-2章)。監督は筋書きを話し、中心人物の説明をし、前もって、この劇では誰が何をするのか、それはなぜなのかを教える。実際、監督は劇中の謎をことごとく解き明かすが、例外が一つある。主人公はどういう反応を示すのか。ヨブは神を信頼するのか、それとも否定するのか。その説明はない。
幕が上がると、舞台の上には役者だけがいる。役者たちは劇に閉じ込められていて、監督があらかじめ告げたことは一つも知らない。私たちは『誰がやったか』という疑問の答えを知っているが、探偵を演じるスターのヨブは知らない。ヨブは舞台の上での時間をかけて、私たちがすでに知っていることを発見しようとる。......ヨブはどんな間違いを犯したのか。何も悪いことはしていない。ヨブは人類の最上の者を代表している。神ご自身がヨブのことを『潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている』と言われなかっただろうか。ではなぜ、ヨブは苦しみを受けているのか。懲罰のためではない。天上の戦いにおける、代表戦士として選ばれたのである。」(山下章子訳 いのちのことば社 157-158ページ)
人間はなぜ苦しむのか。しばしば私たちは、この問題への明快な答えを求めてヨブ記に向かいますが、そこには答えがありません。あるのは、大災害のただ中で神に対するゆるぎない信仰を貫いた人の姿です。
父親の鏡
古代のウツの地で、最高の父親は誰だったかと聞かれたら、それは文句なくヨブでしょう。彼は潔白で正しい生活を送っていたと、ヨブ記の冒頭はこれ以上ないことばで称賛しています。財産も豊かで、信仰面でも神とともに歩み、10人の子どもたちのためにいつも祈りをささげていました。
それだけで終わっていたなら、友人の慰めなどいらなかったでしょう。しかし、この物語にはまだ続きがあります。ある日、天で神とサタンのあいだに会話が交わされます。その後、ヨブの生涯は一変するのです。
悪い情報を除く
夫婦でニューヨークに旅行した時、雪が降りしきる中、5キロ先のキューバ料理のレストランで夕食を取ろうと思いました。タクシーを呼ぼうと、スマホにタクシー会社のアプリをダウンロードし、住所を入力すると、表示された料金は20万円近くでぎょっとしました。しかし、気を取り直してよく見ると、誤って行先を数百キロ離れた自宅にしていたことに気づきました。
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隣町にFIKAという名前のカフェがあります。コーヒーとケーキで一息つこうという意味のスウェーデン語で、いつも家族、同僚、友達が一緒です。私はスウェーデン人ではありませんが、FIKAの精神が好きです。大好きなイエスの生き方の一端、つまり、みんなで食べたり、くつろいだりされたことを連想させるからです。
静かな畏敬の念
私の生活は慌ただしいと常々感じています。会議から会議に移り、折り返し電話を繰り返し、延々と続く「やる事メモ」をつぶしていきます。ある日曜日、疲労困憊で庭のハンモックに倒れ込みました。スマホは家の中、夫も子どもたちも家にいました。最初はほんの少しだけのつもりだったのに、その静けさの中には、留まりたいと思わせる数々のものがありました。きしむハンモックの穏やかな音、ラベンダーの周りを飛ぶ蜂の音、鳥の羽音も聞こえました。空は抜けるような青さで、白い雲が風に乗って流れています。