タイの北部に「集まり」という名前の超教派の教会があります。この前の日曜日は、韓国、ガーナ、パキスタン、中国、バングラデシュ、米国、フィリピンなどのキリスト者が、安いホテルの会議室で礼拝しました。そして「キリストのみで」「私は神の子」を共に歌いました。その歌詞はこの状況下では特に感動的でした。

イエスほど人を結びつける人はいません。初めからそうでした。1世紀のアンテオケには18もの異なる民族が、それぞれの居住区に住んでいました。初めアンテオケに来た信徒たちは、イエスのことを「ユダヤ人以外の者にはだれにも」(使11:19)語りませんでした。しかし、それは教会に関する神のご計画ではなく、その中の何人かが「ギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝え」ました。すると「大ぜいの人が信じて主に立ち返」りました(20-21節)。彼らは、長年に及ぶユダヤ人とギリシヤ人の不和をイエスが癒やしたと気付き、この多民族の信徒たちを「キリスト者」(26節)と呼びました。

民族や社会的、経済的な違いのある人を受け入れるのは簡単ではありません。しかし、難しいことに挑戦するなら、そこにチャンスが生まれます。簡単にできるならイエスはいらないし、イエスに従っている人がいることを知らせることもできません。