いつ役に立つの?
孫のローガンは6年生で、代数の宿題をしながら、将来の夢はエンジニアになることだと言いました。そして、私に手伝ってもらいながら、xやyを使って計算問題を解きつつ、こうつぶやきました。 「こんなこと、いつ役に立つの?」
休みの許可
岩に波があたり、しぶきが弧を描くのをスージーと一緒に眺めていました。次から次へと打ち寄せる波を見て、彼女は「海が大好き。私が何もしなくても、動いているから」と言いました。労働を一旦止め休息するためには「許可」が必要だ、と感じる人が多いのは興味深いことです。その許可は「神」が下さいます。神は6日間働いて、光や大地、動植物や人間を造られ、世界を完成されると、7日目には、すべての労働を止められました(創1:31-2:2)。十戒は、神に栄光を帰す健康的な生き方の箇条書きですが(出20:3-17)、「安息日を覚え……よ」 (出20:8-11)は、その一つです。安息日は休みの日という意味です。イエスは、町のすべての病人を癒やされると(マコ1:29-34)、翌朝には祈るために寂しいところに退かれたと(マコ1:35)、新約聖書は語ります。私たちの神は、目的をもって働かれ、目的をもって休まれました。
霊の刷新
中医学では、真珠粉を使った角質ケアが何千年も行われてきました。ルーマニアでは若返り効果をうたう泥パックが人気です。世界中の人たちが、たるんだ肌さえよみがえると信じて、ボディケアにいそしんでいます。
イエスは私たちに同情してくださる
第二章 イエスの悲しみがもたらしたもの
映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』の舞台は、全宇宙の生命の半数が消し去られた世界です。生き残った人々はみな、喪失の悲しみを抱えながら生きています。鬱で塞ぎ込む者、復讐(ふくしゅう)の機会を狙う者、仕事に没頭する者……。悲しみへの対処の仕方は様々です。しかし確かなのは、誰もが痛みの中で、葛藤しながら歩んでいるということです。その歩みは一人一人異なり、誰とも比較できません。
私たちの歩みも同じです。しかしその孤独に、悲しみの人イエスは触れてくださいます。自分の抱える問題は誰にも分かってもらえないと打ち沈むとき、ヘブル人への手紙は断言します。実に、神の御子は私たちに心から同情してくださる、と。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(ヘブル4:15)
キーワードはもちろん「同情」と「試み」です。これらはイエスの心の中で結びついています。まず後者「試み」から見てみましょう。原語は前向きに「試練」とも、否定的に「誘惑」とも訳せる言葉で、この文脈ではどちらにも解釈できます。
マタイ4章で、イエスは確かにサタンの試みを受けられました。それも40日間の断食によって身体的に弱り果てた状態で、です。しかし、それはイエスの経験された誘惑のほんの一部に過ぎません。ヘブル人への手紙がはっきりと告げるのは、イエスはその生涯全体を通し「すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた」ということです。私たちと異なるのは罪を犯されなかったという点だけです。
「すべての点において」という言葉も極めて重要です。それはイエスの経験の包括性を表すからです。人となられたキリストは、私たちの直面しうるすべての試練や誘惑を余すところなく経験してくださいました。ですから「自分の苦悩など誰にも分かってもらえない」と感じるとき、思い出してください。イエスもあなたの歩んでいる試練の道を歩まれました。そのすべてを、あなたより先に経験してくださったのです――それも最期まで。私たちは試練の道からすぐにそれたり、その全貌が見える前に重圧に屈したりしてしまいます。しかしイエスはそんな私たちと違いました。試練を極みまで経験してくださったのです。
これが、もう一つのキーワード「同情」につながります。イエスはどうして私たちに同情できるのでしょうか。それは私たちと同じように誘惑を経験しながらも、最期まで屈することがなかったからです。ウィアズビーの述べる通りです。「大きすぎる試練も、強すぎる誘惑もない。イエス・キリストは必要なときに、必要ないつくしみと恵みとを私たちに与えてくださるのだ」
イエスが私たちに共感し必要な助けを与えてくださる、というのは口先だけのお題目ではありません。その助けは人の子として歩まれた神の子の生涯に裏付けられた、真実で、確実なものです。
イエスは私たちを助けることができる
第二章 イエスの悲しみがもたらしたもの
1587年7月、子どもを含め117人のイギリス人が、後にアメリカのノースキャロライナ州となるロアノーク島に上陸しました。環境が厳しく、入植者たちは物資をすぐに使い果たしてしまいました。彼らに請われたジョン・ホワイト総督は、救援物資を手に入れるためにイギリスに戻りました。しかし、彼の必死の努力にもかかわらず帰還は遅れに遅れ、入植者たちの切望していた物資を迅速に届けることはできませんでした。3年後、総督が新世界へようやく戻った時、彼らはみな、こつぜんと姿を消していました。何が起こったのかは未だに分かっていません。今日までアメリカ史の謎とされています。どこへ彼らが消えたのかは今後もわからないでしょう。しかしなぜ彼らが姿を消したかは明らかです。生きるか死ぬかの切迫した状況で、助けが来なかったからです。
彼らほど切迫した状況ではないとしても、私たちはみな「見捨てられた、助けを叫び求めても誰も応えてくれない」と感じる瞬間があるでしょう。しかし、たとえ他の誰も応えてくれなくても、悲しみの人イエスは私たちの叫びを聞いてくださいます。
イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(ヘブル2:18)
ある注解書は重要な点を指摘します。「イエスは私たちと同じ性質をとり、人間のはかなさを経験し、試みに遭い苦悩してくださった。だからこそ、試みられている者に適切な助けを与えることができるのだ(The New Bible Commentary)」
イエスは、人間であるとはどういうことかを知っておられました。ヨハネの福音書4章には「旅の疲れ」を感じ、井戸の傍らに座って休まれるイエスの姿があります(6節)。サマリヤの強い日差しの下を歩けば当然、喉が渇きます。そこで、やって来た女性に飲み水を求められました(7節)。他の場面では、嵐に翻弄(ほんろう)される小舟の中でさえ、疲れ果てて眠っておられる姿もあります(マルコ4:36-38)。そして、十字架の上から「わたしは渇く」と言われました(ヨハネ19:28)。
そんなイエスは、私たちにとってどのような大祭司(※)なのでしょう。ヘブル人への手紙が示す2つの大切な点が、私たちを励ましてくれます(ヘブル2:17 参照)。
- あわれみ深い――イエスの助けは、私たちに対する非難からではなく、あわれみの心から生まれる。(ヨハネ3:17 参照)
- 忠実――イエスは折りにかなった助けを与えてくださると信頼してよい(ヘブル4:15-16 参照)
※ イエスはこの地上で、罪は犯されなかったが「兄弟たちと同じように」人間としての弱さを経験された。自分で何もできない赤子であるとはどういうことか、また子どもが成長し、大人になっていくとはどういうことかを実際に体験された。……すべては天で大祭司として務めるための「訓練」だった。(ウォレン・ウィアズビー)
このようなイエスの姿勢は「助けることができる」と訳された言葉にありありと表わされています。「子どもの泣き声を聞き、とっさに駆け寄る様子」とも説明できる表現です。イエスは人となってくださったので、私たちを助ける準備は十分です。
ですから、試練に屈しても誘惑に陥っても、私たちには大祭司、あるいはヨハネの言う「とりなしてくださる方」がいます。
私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥(なだ)めのささげ物です。(1ヨハネ2:1-2)
まとめ
さて、イザヤがキリストとその贖いについて預言した言葉を今、私たちはさらに深く味わうことができます。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で、病を知っていた。
人が顔を背けるほど蔑まれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みを担った。
それなのに、私たちは思った。
神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
(イザヤ書53:3-4)
イエスは悲しみの人でしたが、その悲しみは無意味ではありませんでした。ウィアズビーはこう述べます。「どのような試練に直面しても、イエス・キリストは私たちの必要を理解し、助けてくださる。イエスが私たちに同情し、私たちを強めてくださることをゆめゆめ疑うことはない。ただもう一つ、心に留めるべきことがある。神が私たちに困難の中を通される、その経験によって私たちは他者の必要をもっと理解し、励ませるようになる」
ウィアズビーが視点を少しずらしているのに気付かれましたか。イエスがご自身の苦しみの経験によって私たちを理解してくださるように、私たちもまた、苦しみを通ることで、他者をさらに理解できるようになるのです。詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローはこう書いています。「たとえ敵であっても、一人一人の生い立ちや背景の中にある悲しみや困難をつぶさに見ることができたとしたら、敵意などすっかり失せてしまうだろう」。コリント人への手紙第二1章3‐7節でパウロは、苦難や挫折の中にある人々を慰めるよう呼びかけていますが、それは御子を通して私たちが神から受けた慰めによるのです。
私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難に耐え抜く力を、あなたがたに与えてくれます。私たちがあなたがたについて抱いている望みは揺るぎません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めもともにしていることを、私たちは知っているからです。
すべての悲しみや苦しみを背負われた御子が慰めてくださるのですから、私たちにとって、もはや人生の暗闇は無意味ではありません。困難の中でも「悲しみの人」イエスに倣い、神の望まれる行動を選び取っていきましょう。また自らの暗闇の経験を通して他者の苦しみや悲しみに目を向け、共感しつつ、慰め主なるお方、「悲しみの人」イエスを伝えましょう。
拒絶される悲しみ
第一章 イエスが経験された悲しみ
「案ずるより産むが易し」ということわざがありますが、要は人生理屈ではないということです。実体験に勝るものはありません。例えばオリンピック初出場のアスリート。マスコミに囲まれ、自分のことが四六時中報道されるような事態に戸惑うことでしょう。また、全国民の期待を一身に背負って戦うプレッシャーも、実際に経験しなければ分からないでしょう。一方、これまでに出場したことのある選手は「経験があるから有利だ」と公言します。人生は理屈ではなく経験なのです。
驚くべきことに、同じことが人となられたイエスにも言えます。肉体をまとってこの世に来られたのは単なる見物人としてではありません。キリストは人としての人生を十分に、そして完全に生き抜いてくださいました。単にこの痛みに満ちた世界を視察するためではなく、実際に経験するために来られ、人生の最も困難な状況さえ味わってくださったのです。
【拒絶される悲しみ】
誰もが多かれ少なかれ拒絶を経験します。人間関係がこじれてしまった、仕事を突然クビになった、スポーツの試合で補欠になった、テレビの人気オーディション番組で落選した……。程度の差こそあれ、似たような経験は日常生活にたくさんあるはずです。
拒絶されると心が痛むのはなぜか。それは「あなたは求められていない、評価されていない、必要ない」というメッセージを言外に(時にはっきりと)受け取り、「自分なんかダメだ、価値が無いんだ」と信じ込んでしまうからです。しかし、もっと大切な問いがあります。歴史上で最も完全で価値あるお方は、どのように拒絶を経験されたのか。その事実は、傷つきやすい私たちに何を教えるのか。ルカの福音書13章でイエスは拒絶を経験されますが、そこには2つの側面がありました。
ちょうどそのとき、パリサイ人たちが何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここから立ち去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」イエスは彼らに言われた。「行って、あの狐(きつね)にこう言いなさい。『見なさい。わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する。しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。』エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。おまえたちが『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない」(ルカ13:31-35)
イエスはエルサレムに拒絶されますが、まず注目すべきは、その発端が小さな、個人的な拒絶だったことです。ここに登場するヘロデはローマ帝国の支配下だったユダヤ地方の領主で、マタイの福音書2章で赤子イエスを殺そうとしたヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスです。ルカの福音書には、後にイエスが捕らえられた際、彼がイエスの行う何らかの奇跡を見たがったとあります(23:6-12)。しかし、ここではイエスを恐れ、殺そうとしています。なぜでしょう。理由は9章7節-9節にあります。彼はイエスを、死人の中からよみがえったバプテスマのヨハネだと考えたのです。そしてヨハネを殺したように、イエスをも殺そうとしています。これは度を超した拒絶と言う他ありません。
また意外なことに、イエスにこの差し迫る危険を知らせたのは、普段敵対していたパリサイ人でした。どうしてでしょう(※)。ある注解書は次のような可能性を指摘します。
「パリサイ人たちはなぜイエスを守ろうとしたのか。この状況を、イエスを追い払う口実に使ったと考えるのが妥当だろう。イエスはご自身の目的地がエルサレムだと公言し、着々と歩みを進めておられた。従ってパリサイ人たちの意図は明確である。彼らはイエスが恐れをなして使命を断念するよう仕向けたのだ」(The Bible Knowledge Commentary)
※ 一方で次のように考えることもできる。パリサイ人がイエスを守ろうとしたのは、その中にイエスへの迫害を望まない者が何人かいたからかもしれない。ニコデモは、イエスの公生涯の初期からキリストへの信仰の歩みを始めていた。後にガマリエルは、知恵によって他の議員たちを説得し、使徒たちの命を守った(使徒 5:33-39)。また、アリマタヤのヨセフは(必ずしもパリサイ人ではないが)「有力な議員」で、イエスへの信仰を表明した。
しかしルカ13章で注目すべきは、イエスはエルサレムを目指しながらも、そのエルサレムがご自身を拒絶したとご存じだったことです。後に輝かしいエルサレム入城を果たされるにもかかわらず、ここでは、めんどりがひなを集めるように、何度も彼らを集めようとしたが、彼らはそれを拒んだと嘆いておられます(34節)。聖書教師ウォレン・ウィアズビーは次のように書いています。
悔い改めて救われる機会を何度も与えられたのに、人々はイエスの呼びかけに心を留めなかった。「おまえたちの家」とは、ヤコブの子孫(イスラエルの家)と神殿(神の家)の両方を指す。イエスはどちらも「見捨てられる」と語られたが、事実、街も神殿も破壊され、人々は散らされた。
エルサレムはイエスを拒んだことで、自らの上に大きな苦難を招きました。誤解しないでください。イエスは彼らの拒絶に深く傷つき、心を痛められたのです。その悲嘆の深さが、この箇所にはっきりと表れています。
死別の悲しみ
第一章 イエスが経験された悲しみ
私が初めて死を身近に経験したのは、大学時代の親友マックが突然亡くなった時でした。大きな事故で、ガールフレンドのシャロンと共に命を落としました。私の抱いた喪失感は深く激しいものでした。4年後に父を亡くすと、喪失感はさらに大きくなりました。死別は胸がつぶれるような悲しみをもたらします。イエスもそれを経験されました。ヨハネの福音書には主が親しい友ラザロを亡くされた時のことが書かれています。
イエスが愛する人の死に直面されるのは初めてではないはずです。この時までに、すでに地上の養父、ナザレの大工ヨセフを亡くされていたと思われます(※)。しかしヨハネの福音書11章は四福音書の中で、個人的な死別と喪失に直面されるイエスの姿を伝える代表的な箇所です。
※ ヨセフは福音書にほとんど登場しませんが、イエスの人生に何の影響も与えなかったわけではありません。イエスは幼少期からご自身が救いをもたらすために来た神の子だとご存じでしたが、だからといって地上の父ヨセフと何のつながりもなかったと結論するのは浅はかです。彼の死はイエスの心に大きな影響を与えたことでしょう。
ラザロの姉妹たちはイエスに使いを送り、彼が危篤だと伝えました。しかし主はすぐには応じられませんでした。ご自身が後になさることを知っておられたからです。
これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります」(ヨハネ11:4)
また続いてこうあります。
イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました」(ヨハネ11:11-14)
イエスはご自身がこれからなさることを知っておられました。その点に疑いの余地はありません。それでもラザロの墓の前に立ち、悲嘆に暮れる姉妹マルタとマリア、また嘆き悲しむ村人たちを見て、心を痛められたのです。友の死をどれほど激しく悲しまれたかをよく読み取ってください。
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。(ヨハネ11:33-38 強調は筆者による)
ヨハネは強い言葉を連ねてイエスの悲しみを描写しています。救い主なるお方が「心を騒がせて」「涙を流された」と述べるにとどまらず、親しい友の死に「憤りを覚えた(※)」とさえ書いています。
※ これは怒りや義憤、あるいは激怒さえ表現する語である。このような激しい感情を引き起こしたのは何なのか。それは死とそれに伴う悲しみをもたらす罪への義憤だと理解する者もいる。……あるいは、ご自身の苦しみの杯が近いことを知り、人間の苦悩の重さを実感されたからだともいえる。(The New Bible Comentary)
ご自身が神の御力でラザロを復活させるとご存じでしたが、それでもイエスはその死を嘆き悲しまれました。それも強い憤りを伴って、です。この重要な点を見逃してはなりません。死と戦うために来られたイエスは今、その敵が人間に及ぼす力と影響の大きさを直視し、嘆き悲しまれたのです。イエスが来られたのは、この死を滅ぼすためでした。後にパウロが述べたとおりです。「最後の敵として滅ぼされるのは、死です。(Ⅰコリ15:26)」死はささいな問題ではありません。神にとってさえそうです。詩篇116篇15節はこう語ります。
主の聖徒たちの死は 主の目に尊い。
事実、神は悪者の死にさえ心を動かされるお方です。預言者エゼキエルはこう告げています。
わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──神である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。(エゼ18:23)
わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(33:11)
ゲツセマネの悲しみ
第一章 イエスが経験された悲しみ
初めて引率したイスラエル聖書旅行は、息をのむような素晴らしいものでした。初日はカルメル山のホテルに泊まり、その後メギドやガリラヤ湖など聖書に登場する場所、またマサダやホロコースト記念館など歴史的に重要な場所を巡りました。学びの多い、盛りだくさんの旅でした。
しかし、他のどんな名所よりも「聖地」と呼ぶにふさわしいと思う場所がありました。それはゲツセマネの園、イエスの受難が始まった所です。そこでイエスの苦しみを思い巡らし祈る時間は、まさに聖地での厳粛な体験でした。マタイとマルコは園でのイエスの経験を、同じような言葉で記しています。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」(マタイ26:38-39 強調は筆者による)
さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい」(マルコ14:32-34 強調は筆者による)
ここに、十字架を目前にしたイエスの苦悩を見ることができます。恐怖とも言えるような苦悩です。それ以前にも2度、イエスはその苦悩を表しておられました。1度目は神殿で異邦人たちが、イエスに一目会いたいと願った時です。御父のご計画の壮大さを示すかのように、イエスはこう答えられました。
今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ、この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。(ヨハネ12:27 強調は筆者による)
2度目は、最後の晩餐(ばんさん)の席でユダの裏切りについて語られた時です。
イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります」(ヨハネ13:21 強調は筆者による)
2回ともヨハネは「心が騒ぐ」という言葉でイエスの様子を描写しています。これは興奮して落ち着かない、悩み苦しんでいる、感情がかき立てられる、不安でしょうがないといった様子を表します。御父の目的を成就するために来られた神の御子にもかかわらず、ご自身を待ち受ける苦難を思う時、イエスの心は苦悩でいっぱいになりました。
これら2度の悲しみはゲツセマネへの序章でした。ゲツセマネでイエスは、ご自身を確かに待ち受ける十字架上の現実を直視し、葛藤されました。心騒ぐだけにとどまらず、「深く悩み」「もだえ」苦しまれました。とうとうこの園で、抑えきれなくなった苦悩があふれ出したのです。
来るべき受難への重圧は今や最高潮に達し、イエスを押しつぶそうとしていました。ゲツセマネはオリーブ油の産地でしたが(※)、大きな石の重みでオリーブの実が砕ける、その様子はまさにイエスが「この責任から解いてほしい」と必死に祈られた姿に重なります。その苦悩の激しさは「この杯を取り去ってください」と3度も祈られるほどでした。しかしそれでも、イエスは父のみこころに従われました。私たちのためにご自身をささげ、そして、十字架の上で私たちの悲しみをその身に負ってくださいました。
※ ゲツセマネはオリーブ山のふもとにある。オリーブの木が多く、その地名はアラム語で「油搾り」という意味。
さあ、十字架に進みましょう。