月別: 2023年3月

いつ役に立つの?

孫のローガンは6年生で、代数の宿題をしながら、将来の夢はエンジニアになることだと言いました。そして、私に手伝ってもらいながら、xやyを使って計算問題を解きつつ、こうつぶやきました。 「こんなこと、いつ役に立つの?」

休みの許可

岩に波があたり、しぶきが弧を描くのをスージーと一緒に眺めていました。次から次へと打ち寄せる波を見て、彼女は「海が大好き。私が何もしなくても、動いているから」と言いました。労働を一旦止め休息するためには「許可」が必要だ、と感じる人が多いのは興味深いことです。その許可は「神」が下さいます。神は6日間働いて、光や大地、動植物や人間を造られ、世界を完成されると、7日目には、すべての労働を止められました(創1:31-2:2)。十戒は、神に栄光を帰す健康的な生き方の箇条書きですが(出20:3-17)、「安息日を覚え……よ」 (出20:8-11)は、その一つです。安息日は休みの日という意味です。イエスは、町のすべての病人を癒やされると(マコ1:29-34)、翌朝には祈るために寂しいところに退かれたと(マコ1:35)、新約聖書は語ります。私たちの神は、目的をもって働かれ、目的をもって休まれました。

霊の刷新

中医学では、真珠粉を使った角質ケアが何千年も行われてきました。ルーマニアでは若返り効果をうたう泥パックが人気です。世界中の人たちが、たるんだ肌さえよみがえると信じて、ボディケアにいそしんでいます。

悲しみの人イエス ―主の苦しみと共感が私たちにもたらすもの

「この苦しみは誰にも分かってもらえない……。」そう感じるときがあります。しかし聖書は、私たちの痛みに共感してくださる主がおられると語ります。まことの神であられるにもかかわらず、まことの人となられたイエスは、私たちの経験をご自分のものかのように分かってくださいます。私たちがこの世界で葛藤するとき、「悲しみの人」イエスは慰めを与えてくださるのです。本書を通し、人間として生きられた救い主の愛の深さを知ることができますように。そして、その愛があなたの人生をどのように変えるかを理解できますように。

イエスは私たちに同情してくださる

第二章 イエスの悲しみがもたらしたもの

映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』の舞台は、全宇宙の生命の半数が消し去られた世界です。生き残った人々はみな、喪失の悲しみを抱えながら生きています。鬱で塞ぎ込む者、復讐(ふくしゅう)の機会を狙う者、仕事に没頭する者……。悲しみへの対処の仕方は様々です。しかし確かなのは、誰もが痛みの中で、葛藤しながら歩んでいるということです。その歩みは一人一人異なり、誰とも比較できません。

私たちの歩みも同じです。しかしその孤独に、悲しみの人イエスは触れてくださいます。自分の抱える問題は誰にも分かってもらえないと打ち沈むとき、ヘブル人への手紙は断言します。実に、神の御子は私たちに心から同情してくださる、と。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(ヘブル4:15)
キーワードはもちろん「同情」と「試み」です。これらはイエスの心の中で結びついています。まず後者「試み」から見てみましょう。原語は前向きに「試練」とも、否定的に「誘惑」とも訳せる言葉で、この文脈ではどちらにも解釈できます。

マタイ4章で、イエスは確かにサタンの試みを受けられました。それも40日間の断食によって身体的に弱り果てた状態で、です。しかし、それはイエスの経験された誘惑のほんの一部に過ぎません。ヘブル人への手紙がはっきりと告げるのは、イエスはその生涯全体を通し「すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた」ということです。私たちと異なるのは罪を犯されなかったという点だけです。

「すべての点において」という言葉も極めて重要です。それはイエスの経験の包括性を表すからです。人となられたキリストは、私たちの直面しうるすべての試練や誘惑を余すところなく経験してくださいました。ですから「自分の苦悩など誰にも分かってもらえない」と感じるとき、思い出してください。イエスもあなたの歩んでいる試練の道を歩まれました。そのすべてを、あなたより先に経験してくださったのです――それも最期まで。私たちは試練の道からすぐにそれたり、その全貌が見える前に重圧に屈したりしてしまいます。しかしイエスはそんな私たちと違いました。試練を極みまで経験してくださったのです。

これが、もう一つのキーワード「同情」につながります。イエスはどうして私たちに同情できるのでしょうか。それは私たちと同じように誘惑を経験しながらも、最期まで屈することがなかったからです。ウィアズビーの述べる通りです。「大きすぎる試練も、強すぎる誘惑もない。イエス・キリストは必要なときに、必要ないつくしみと恵みとを私たちに与えてくださるのだ」

イエスが私たちに共感し必要な助けを与えてくださる、というのは口先だけのお題目ではありません。その助けは人の子として歩まれた神の子の生涯に裏付けられた、真実で、確実なものです。

イエスは私たちを助けることができる

第二章 イエスの悲しみがもたらしたもの

1587年7月、子どもを含め117人のイギリス人が、後にアメリカのノースキャロライナ州となるロアノーク島に上陸しました。環境が厳しく、入植者たちは物資をすぐに使い果たしてしまいました。彼らに請われたジョン・ホワイト総督は、救援物資を手に入れるためにイギリスに戻りました。しかし、彼の必死の努力にもかかわらず帰還は遅れに遅れ、入植者たちの切望していた物資を迅速に届けることはできませんでした。3年後、総督が新世界へようやく戻った時、彼らはみな、こつぜんと姿を消していました。何が起こったのかは未だに分かっていません。今日までアメリカ史の謎とされています。どこへ彼らが消えたのかは今後もわからないでしょう。しかしなぜ彼らが姿を消したかは明らかです。生きるか死ぬかの切迫した状況で、助けが来なかったからです。

彼らほど切迫した状況ではないとしても、私たちはみな「見捨てられた、助けを叫び求めても誰も応えてくれない」と感じる瞬間があるでしょう。しかし、たとえ他の誰も応えてくれなくても、悲しみの人イエスは私たちの叫びを聞いてくださいます。
イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(ヘブル2:18)
ある注解書は重要な点を指摘します。「イエスは私たちと同じ性質をとり、人間のはかなさを経験し、試みに遭い苦悩してくださった。だからこそ、試みられている者に適切な助けを与えることができるのだ(The New Bible Commentary)」

イエスは、人間であるとはどういうことかを知っておられました。ヨハネの福音書4章には「旅の疲れ」を感じ、井戸の傍らに座って休まれるイエスの姿があります(6節)。サマリヤの強い日差しの下を歩けば当然、喉が渇きます。そこで、やって来た女性に飲み水を求められました(7節)。他の場面では、嵐に翻弄(ほんろう)される小舟の中でさえ、疲れ果てて眠っておられる姿もあります(マルコ4:36-38)。そして、十字架の上から「わたしは渇く」と言われました(ヨハネ19:28)。

そんなイエスは、私たちにとってどのような大祭司(※)なのでしょう。ヘブル人への手紙が示す2つの大切な点が、私たちを励ましてくれます(ヘブル2:17 参照)。

  • あわれみ深い――イエスの助けは、私たちに対する非難からではなく、あわれみの心から生まれる。(ヨハネ3:17 参照)
  • 忠実――イエスは折りにかなった助けを与えてくださると信頼してよい(ヘブル4:15-16 参照)

※ イエスはこの地上で、罪は犯されなかったが「兄弟たちと同じように」人間としての弱さを経験された。自分で何もできない赤子であるとはどういうことか、また子どもが成長し、大人になっていくとはどういうことかを実際に体験された。……すべては天で大祭司として務めるための「訓練」だった。(ウォレン・ウィアズビー)
このようなイエスの姿勢は「助けることができる」と訳された言葉にありありと表わされています。「子どもの泣き声を聞き、とっさに駆け寄る様子」とも説明できる表現です。イエスは人となってくださったので、私たちを助ける準備は十分です。

ですから、試練に屈しても誘惑に陥っても、私たちには大祭司、あるいはヨハネの言う「とりなしてくださる方」がいます。
私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥(なだ)めのささげ物です。(1ヨハネ2:1-2)

まとめ

さて、イザヤがキリストとその贖いについて預言した言葉を今、私たちはさらに深く味わうことができます。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、

悲しみの人で、病を知っていた。

人が顔を背けるほど蔑まれ、

私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、

私たちの痛みを担った。

それなのに、私たちは思った。

神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

(イザヤ書53:3-4)
イエスは悲しみの人でしたが、その悲しみは無意味ではありませんでした。ウィアズビーはこう述べます。「どのような試練に直面しても、イエス・キリストは私たちの必要を理解し、助けてくださる。イエスが私たちに同情し、私たちを強めてくださることをゆめゆめ疑うことはない。ただもう一つ、心に留めるべきことがある。神が私たちに困難の中を通される、その経験によって私たちは他者の必要をもっと理解し、励ませるようになる」

ウィアズビーが視点を少しずらしているのに気付かれましたか。イエスがご自身の苦しみの経験によって私たちを理解してくださるように、私たちもまた、苦しみを通ることで、他者をさらに理解できるようになるのです。詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローはこう書いています。「たとえ敵であっても、一人一人の生い立ちや背景の中にある悲しみや困難をつぶさに見ることができたとしたら、敵意などすっかり失せてしまうだろう」。コリント人への手紙第二1章3‐7節でパウロは、苦難や挫折の中にある人々を慰めるよう呼びかけていますが、それは御子を通して私たちが神から受けた慰めによるのです。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難に耐え抜く力を、あなたがたに与えてくれます。私たちがあなたがたについて抱いている望みは揺るぎません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めもともにしていることを、私たちは知っているからです。

すべての悲しみや苦しみを背負われた御子が慰めてくださるのですから、私たちにとって、もはや人生の暗闇は無意味ではありません。困難の中でも「悲しみの人」イエスに倣い、神の望まれる行動を選び取っていきましょう。また自らの暗闇の経験を通して他者の苦しみや悲しみに目を向け、共感しつつ、慰め主なるお方、「悲しみの人」イエスを伝えましょう。

十字架上の悲しみ

第一章 イエスが経験された悲しみ

それまでも分かっていたはずの十字架の意味が、思いもよらず突然、心に迫ってきたという経験はないでしょうか。1978年、ナッシュビルのスタジオで、私が所属していた大学生バンドのアルバムを制作していた時のことです。レコーディングエンジニアのトラヴィス・タークが「君に聞かせたい未発表音源がある」と言うと、照明を落とし、私一人をスタジオに残して出ていきました。流れてきたのはフィル・ジョンソンの歌う”The Day He Wore My Crown”という美しいバラードでした。「本当は私のかぶるべきいばらの冠をかぶり、イエスは十字架でご自身をささげてくださった」という歌詞に心を打たれ、時が止まったかのように感じました。

十字架上で「悲しみの人」が何を経験してくださったのかを見ていきましょう。
さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:45-46 強調は筆者による)
これは本書の冒頭に引用した、苦しむ救い主についてのイザヤの預言を思い起こさせます。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、

悲しみの人で、病を知っていた。

人が顔を背けるほど蔑まれ、

私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、

私たちの痛みを担った。

それなのに、私たちは思った。

神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

(イザヤ書53:3-4 強調は筆者による)
イザヤが記した痛みそのままを、イエスは十字架上で余すところなく、最期までその身に受けてくださいました。その苦しみは、詩篇22篇のダビデの嘆きに託されました。「神はなぜ、私を見捨てられたのか」という叫びが、真っ暗なカルバリの丘に響き渡ったのです。しかし、驚くべきことに、この悲しみが最終的にはイエスに喜びをもたらしました。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル12:2 強調は筆者による)
イエスは私たちの悲しみと痛みを担ってくださっただけでなく、十字架の犠牲によって私たちへの愛を表し尽くしてくださいました。十字架の上で、私たちの悲しみや痛みだけでなく、そのような重荷をもたらす罪と過ちをも担ってくださいました。十字架はこの壊れた世界のすみずみにまで及ぶイエスの勝利ですが、そこには叫ばざるを得ないほどの苦しみが伴いました。

苦しみの叫びは、究極の勝利の叫びに変わります。「完了した」(ヨハ19:30)これがイエスの勝利宣言です。私たちと同じように痛みや悲しみを経験されたイエスは、私たちの数々の痛みや悲しみをその身に引き受け、それに打ち勝ってくださいました。

イエスは従順を学ばれた

第二章 イエスの悲しみがもたらしたもの

古いラテン語のことわざに「経験は最良の教師」というのがありますが、その例は生活のあちこちにあります。科学者は実験と考察を積み重ねることで、よりよい理論を立てます。アスリートやミュージシャンは練習を積み重ねることで能力を高め、技術を磨きます。夫婦は長い歩みの中で多くの困難に共に立ち向かい、絆を深めます。事実、経験は人生の貴重な導き手です。

経験から学び、人間関係を深める。これは誰もが体験的に知っている、当たり前のことです。しかし、神の子イエスも経験から学ばなければならなかったと聞いたらどうでしょうか。驚きや違和感を覚えるかも知れません。それでもヘブル人への手紙は、イエスが私たちと同じように経験から学ばれたと教えています。

迫害下のクリスチャンにあてたこの手紙は、キリストの優位性、つまりキリストが全てのものにまさるお方だと論ずるために紙幅の多くを費やしています。しかしそれだけではありません。イエスが悲しみの人として経験された苦しみと、それを通して成し遂げてくださったことについて、3つの大切なことを教えています。(先述のように、それは十字架と復活による救いに留まらないのです。)それでは、イエスは何を学ばれたのでしょうか。

【イエスは従順を学ばれた】
キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、(ヘブル5:8)
興味深いことに、ある注解書はここにギリシャ語の言葉遊びがあると指摘します(The Bible Knowledge Commentary)。「苦しみ【エパスェン】によって……学び【エマスェン】」と韻を踏むことで、「苦しみ」と「学び」の関連性を強調しているというのです。

これは単なる上手な言葉遊び以上のものです。ギリシャ語でこの手紙を聞いた当時の聴衆は、この語呂合わせによって、著者が何か大切なことを強調していると気付いたはずです。それはキリストの経験と、その重要性についてのメッセージです。

また、ここには明らかな教義上の挑戦が含まれています。それは「ケノーシス」と呼ばれる、ピリピ人への手紙2章の内容と深くつながっています。パウロはそこで、キリストはこの地に来られるに際し、ご自分を「空しく」、あるいは「無に」されたと書いています(7節、原語「ケノー」は「ケノーシス」の語幹)。

ここに神学的な挑戦が凝縮されています。イエスがこの地に来られた時、一体何を空しくされたのでしょう。神としての属性、御性質、特権、あるいは他の何かなのでしょうか。神学者たちが何世紀にもわたり議論を続けていますが、次の文章は特に有益です。
ここに神秘的な要素があることを否定する必要はない。……私たちには十分に理解できないが、初めから全てをご存じの完全な神の子が、自ら人となることで、人間であるということを身をもって理解してくださった。人間の本物の苦悩を味わわれたからこそ、主はご自身に従う者たちに心の底から共感してくださる。(The Bible Knowledge Commentary)
しかも、ヘブル人への手紙が「学び」と結び付ける「苦しみ」は、ありふれた普通のものではありません。直前の節を見れば、「学び」と結び付けられている「苦しみ」は、先ほど見たあのゲツセマネでの苦悩です。
キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔(けいけん)のゆえに聞き入れられました。(ヘブル5:7)
ある注解書はイエスのゲツセマネでの祈りと学びの関係性についてこう記しています。
神の子であるにもかかわらず、イエスは父のみこころからそれてしまいたいという誘惑を経験された。その先に苦しみが待ち構えていたからである。イエスは、この世を生きる生身の人間にとって、神への従順が実際どのようなものなのかを学ばなければならなかった。それは同じように誘惑にさらされる私たちを理解するためであり、また、徹底して自らを神にささげ従い抜く模範を私たちに示すためだった。(The New Bible Commentary)
苦しみの経験から学ばれたからこそ、イエスは苦しみの最中にいる私たちに同情してくださいます。次はこの点について見ていきます。