若い牧師が悩んでいたので、思い切って、祈っているかと尋ねました。使徒パウロの言葉どおり、絶えず祈っていますか、と。彼は苦々しげに「祈りをまだ信じているかどうか分からない」と打ち明けました。眉をひそめ「というか、神は聞いておられるのだろうか。世の中がこんなふうなのに」と言いました。彼は自分で主の働きを建て上げようとし、挫折していました。なぜでしょう。残念なことに、神を拒絶していたからです。

教会の要の石であるイエスも、人に受け入れられず、「ご自分の民」から拒絶されました(ヨハ1:11)。今日も多くの人がイエスを拒絶し、自分の力で人生や仕事、教会さえ建て上げようとしています。そういう人の土台は、己の夢や構想という脆弱(ぜいじゃく)なものです。良き救い主だけが、私たちの力です。「家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった」(詩118:22)と語られるとおりです。

人生の分かれ道だと意識して祈るならば、神は主のために何かを成そうとする人に、正しい方向性を示されます。私たちは「ああ主よ、どうか救ってください。ああ主よ、どうか栄えさせてください」(詩118:25)と祈ればよいのです。その結果は「祝福あれ 主の御名によって来られる方に」(26節)という賛美です。主に感謝しましょう。主はまことにいつくしみ深いのですから。