本屋の店員のキースは、店主が2日間、休みを取って不安でした。店は順調でしたが、キースは、きちんと留守番ができるか心配でした。それで、あれもこれもと、全ての業務を神経質に細かく確認しました。ついに店主は「やめなさい」とビデオ通話で言いました。「君がやるべきことは、毎日のメールの指示に従うことだけだ。心配するな、キース。店の責任は私にある。君にではない」

イスラエルが他の国々と争っていた時代、神は「やめよ」(詩46:10)と、同じ指示をされました。つまり、「必死に頑張らなくていい。ただ私の指示に従いなさい。わたしがあなたのために戦うから」と言われたのです。それは受け身になることや、現状に満足して怠惰になることではありません。むしろ、積極的に静まること。つまり、目下の状況を神の手に委ね、やるべきことをして結果を神に任せる。同時に、神に真心から従うことです。

私たちが召されているのも同じことです。神は世界を統治されるお方ですから、私たちは主を信頼し、その召しに従えるはずです。聖書は「神が御声を発せられると 地は溶ける」、神は「地の果てまでも戦いをやめさせる」(詩46:6、9)と語ります。神がそういうお方ならば、神を避け所とし、その力に頼っても安全です(1節)。私たちの人生の責任は神にあります。私たちにではありません。