道路は凍っているようには見えなかったのですが、運転していた小型トラックがスリップして左右に大きく揺れました。そして蛇行すると、5メートルの崖から宙を舞いました。私はとっさに「飛んでる! すごいぞ! でも死ぬんだな」と思いました。次の瞬間、車は斜面に衝突し、下まで転落しました。私は運転席から這い出ました。かすり傷一つなく。

1992年12月のあの朝、祖父のトラックは大破しました。私は神に守られました。でも祖父の損失は……。しかし、彼はトラックについて何も言いませんでした。叱責も弁償の話もありません。あったのは赦し、そして、孫の無事を喜ぶ笑顔でした。

祖父の優しさは、エレミヤ書31章に記された神のあわれみを想起させます。イスラエルの大きな過ちにもかかわらず、「わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさない」と言われ、イスラエルの民との関係を回復すると約束されました(34節)。

祖父は私がトラックをダメにした事実を忘れなかったでしょう。しかし、彼はエレミヤ書31章に記された神のように振る舞ってくれました。損失を思い起こさず、私に恥をかかせず、償いも求めませんでした。神が「思い起こさない」と言われました。祖父も私の過失を水に流すという選択をしてくれました。まるで私が失敗しなかったかのように。