再発がんの手術を終え、フェイは腹部の傷痕に手を触れました。今回は胃の一部を切除して、大きな傷痕が残りました。それは事の重大性を物語っています。彼女は夫に言いました。「この傷痕は、これまでのがんの苦痛か、癒やしの始まりかを表すシンボルね。私は後者を選択するわ」

旧約聖書のヤコブも「ある人」(創32:24)と一晩中格闘した後、同じ選択に迫られました。太ももの関節を打たれて脱臼したのです。ヤコブは疲れた身体のまま、足を引きずって歩きました。その後しばらく、股関節を摩りながら何を思っていたでしょう。人をだまして生きてきたために生死をかけて戦わざるを得なかったと悔やみ続けたでしょうか。

神の使いは、ヤコブの本当の姿を暴き、彼が己の罪深さを認めるまで祝福しませんでした。彼は自分が「かかとをつかむ者」であると告白しました(創25:26参照)。兄エサウや義父ラバンをだまして自分の欲するものを手に入れたからです。神の戦士はヤコブの新しい名は「イスラエルだ」と告げました。それは、彼が「神と、また人と戦って、勝ったからだ」と言いました(32:28)。

ヤコブのけがは、古い欺瞞(ぎまん)の人生が終わり、神と歩む新しい人生が始まったことを表しました。ヤコブは終わり、イスラエルが始まったのです。彼は傷によって自分の人生に力強く関わられる神に頼るようになったのです。