娘は、幼い頃、昼食時によくスイスチーズで遊びました。淡い黄色のチーズの穴から瞳を輝かせて私をのぞき見ながら「ママ、見て!」と言います。私には、そのチーズのお面は、自分の子育ての奮闘、つまり、純粋にささげつつも非常に不完全な母の愛を代弁しているように感じました。私は聖なるものではなく、欠けだらけなのです。

私たちは聖なる人生を送りたいと願います。神のために生き、イエスの似姿に作り変えられたいと切望します。しかし、聖(きよ)さは、手の届くところにありません。

使徒パウロは「按手(あんしゅ)」に応える生き方をしなさいと激励しました(Ⅱテモ1:6-7)。そして次のように述べました。「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした」(9節)。聖なる生き方は、私たちの性格の善しあしではなく、神の恵みによって可能になります。そして「この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられ」(9節)ていると、パウロは語ります。神の恵みを受け取りましょう。そして、神が与えてくださる力を土台として生きていきましょう。