キリストにきよめられる
初めて参加した短期宣教旅行の行き先はブラジルのアマゾン川流域のジャングルでした。ある日、地域の家を訪問すると、珍しく浄水器がありました。濁った井戸水の汚れが数分で取り除かれ、きれいな飲み水に変わりました。私の心にキリストにきよめられるというイメージが浮かびました。
惜しみなく受け、惜しみなく与える
私たち夫婦は、それぞれ学資ローンを抱えて大学を卒業しました。二人の借金を一本化する低金利のローンを地元の銀行に申し込みましたが、審査に通りませんでした。その地域での居住期間や就労期間が短すぎたのです。数日後、この一件を教会役員のミンに話すと、彼は「妻にも話をするよ」と言いました。
キリストのとっておき
「 聖い」という言葉は、何かと誤解されがちです。「聖人君子」という言葉には、お堅い、上から目線、といった意味合いが含まれています。そんな中、キリスト者は聖さを正しく理解する必要があります。
旧約聖書と新約聖書で「聖」を表す単語は、ヘブル語では「コデシュ」、ギリシャ語では「ハギオス」です。「神の御用のために取っておかれる」ことを示唆します。つまり、汚れのなさと有用性を表します。これらは、神ご自身とその目的にささげて生きた結果、もたらされます。
では、実際に「取っておかれた」人とはどういう人でしょう。その答えは、ローマ人への手紙12章1-2節に記されています。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」
キリストの名によって生きるよう召された信者の人生がどれほど独自性に富んだものかお分かりでしょうか。パウロによるなら、神に喜ばれる、聖なる、生きたささげ物、この世と調子を合わせない、心を新たにする、神のみこころを見分ける、といった特徴のある生き方です。
人間の能力や知恵では到底成し得ません。(律法を厳格に守ったと言われる1世紀のパリサイ人にすら、無理でした)。しかし、御霊を通して神に働いていただくなら、私たちを贖(あがな)ってくださった聖なる方と息を合わせ、「神の御用のために取っておかれた」人として生きることができるのです。
神のために取っておかれるとは?今月は、神が聖であるように聖であるとはどういうことかを考えます。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 聖なる者へ
8日 偶像
15日 愛の心
22日 礼拝の家
聖なる者へ
娘は、幼い頃、昼食時によくスイスチーズで遊びました。淡い黄色のチーズの穴から瞳を輝かせて私をのぞき見ながら「ママ、見て!」と言います。私には、そのチーズのお面は、自分の子育ての奮闘、つまり、純粋にささげつつも非常に不完全な母の愛、を代弁しているように感じました。私は聖なるものではなく、欠けだらけなのです。