その人は猫背でつえをついていました。しかし、長く続いた牧会は、彼が神の力に頼った証しでした。牧師のウィリアム・バーバー2世は、1993年、背骨の椎骨同士が癒合する衰弱性の病気と診断されました。医者は「別の仕事を考えた方がよいのではありませんか。教会は、身障者の牧師を望まないでしょう」とあからさまに言いました。しかし、バーバー師は、そんな侮辱に負けません。神は彼を牧師として用い続けられただけでなく、社会的弱者の力強い代弁者とされました。彼の声は敬意をもって受け取られたのです。
この世が、障害者との向き合い方を知らなくても、神はご存じです。ファッションや筋トレ、お金で買えるもののことばかり考えている人は、招かれざる痛みに伴う価値を見落としがちです。使徒ヤコブは「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか」(ヤコ2:5)と語りましたが、その言い回し、またそれを支える原則について、私たちはよく考えるべきです。力や健康、その他どんなものが衰えたとしても、それに追随して、信仰が衰える必要はありません。むしろ、神の力によって栄えることさえあります。欠如によって、神に対する信頼がかき立てられる場合もあります。神は、人の弱さや痛みを、イエスの場合と同じく、この世に良いものをもたらすために用いられます。
自分には、どんな弱さや欠如があると思いますか。あなたの弱さはどんな形で、誰かを励ます良いものになりますか。
父よ、自分に弱さがあることを踏まえた上で、それでも、あなたに誉れを帰す人になれるように、助けてください。