Month: 2月 2025

神の約束と虹

ナイアガラの滝の迫力に魅了されていると、周りの観光客が、突然写真を撮り始めました。川を横切るように虹が架かったのです。それはカナダ滝の滝つぼから始まり、アメリカ滝の滝つぼで終わっているようでした。しかし、実は虹に終わりはありません。一度だけ見たことがあるのですが、虹は円形なのです。

流れのほとりに植えられた

ビルは退職した高齢の男性で一人暮らしをしており、最近、車の免許を返納しました。食料品や薬などを買うときや日曜日の礼拝に行くときは、誰かに送迎してもらわなくてはなりません。しかし彼はこう言います。「家で過ごすのは悪くないよ。ネットで無料の賛美歌を聴いたり、バイブル・スタディをしたり、一日中楽しんでいる」。彼の日々は、神のみことば、祈り、賛美に包まれています。

イエスを愛した記憶

スウェーデンにも「断捨離」と似た考え方があって「死のお片付け」と呼ばれます。年齢を重ねたら「モノ」を増やさずに、ため込んできた不用なものを処分していくことは、子どもや親族たちに対する愛の贈り物だといいます。遺品整理を簡単にするからです。

起き上がる

フィギュアスケートは、氷上でのスピンやジャンプ、美しいポーズなど、高い運動能力と芸術性を融合させたスポーツです。私は10代の頃、これに夢中になりました。多くのプロスケーターの演技を見た後、ついにグループレッスンに参加する機会を得て、滑り方と止まり方を学びました。同時に、どのレベルのスケーターにとっても重要な技術、つまり、転び方と素早い立ち上がり方を教わりました。個人レッスンでは、さまざまなスピンやジャンプを習いましたが、転んだ時は常に、基本の起き上がり方が役に立ちました。

孤独と向き合った女性、ハガル

ではどうすれば、ひとりでいることから逃げずにいられるのでしょう。

旧約聖書の「創世記」に登場するハガルという女性をご紹介したいと思います。ハガルはユダヤ人の父祖アブラハムの妻サラの女奴隷でした。サラが不妊だったため、夫妻はハガルにアブラハムの子を産ませ、その子イシュマエルを跡継ぎにすると決めました。現代の倫理観からすると大いに問題のある行動ですが、家父長制の古代社会では常識に属する行為でした。実際、これを提案したのは妻のサラで、アブラハムがそれを受け入れる形でイシュマエルが産まれました(創世記16章)。

ところがその後、サラにイサクという子どもが産まれると状況は一変します。イシュマエルがイサクをからかっているのを目撃したサラは、あの母子をこの家から追放してくれと夫に懇願します。深く悩んだアブラハムが祈ると、神はあの母子の面倒も必ず見るから大丈夫だと語られます。翌日アブラハムは水とパンだけを持たせて二人を旅立たせます。飢えと危険に囲まれた砂漠で、これは「殺人行為」にも等しかったのですが、神の言葉を信じ、アブラハムは決断しました。

やがて水がなくなると、ハガルはイシュマエルを灌木の下に放り出し、弓で届くほどの距離に座り、声を上げて泣いたと聖書は語ります(創世記21章16節)。息子が先に死ぬのを見たくなかったのです。ハガルはこのとき、全世界に見捨てられたような、圧倒的な孤独を味わったに違いありません。その孤独のなか、ハガルは声を上げて泣きました。その時です。神は「立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい」と語られました。そして、「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた」のです(創世記21章18-19節)。ハガルはすぐさまその井戸の水を少年に飲ませ、母子は命をつなぎます。その後、イシュマエルは立派に成長し、弓を射る人となったと聖書は伝えています。

ハガルには孤独から逃げるすべはありませんでした。深い孤独を味わい尽くし、その寂しさを表現したとき、神が介入されたのです。荒唐無稽ですが、もし彼女の手にスマホが握られていたらどうでしょう。孤独から一時的にでも逃避できるツールを持っていたら、神と、また神の啓示と出会ったでしょうか。

実は、ハガルが孤独に追いやられたのは、このときが最初ではありません。イシュマエルを妊娠して有頂天になっていたとき、嫉妬したサラ(当時の名前はサライ)にいじめられて逃げ、砂漠で途方に暮れていました。その孤独の中で、彼女は神に会い、自分に語りかけられたお方を「エル・ロイ」と呼びました。それは「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」という意味です。つまり、彼女は、神を親しく見たと述べていたのです(創世記16章)。

たとえ神を知っていたとしても、自ら孤独を選ぶ人は少ないでしょう。孤独は頼みもしないのに、あちらからやって来ます。しかし、そこで自分を偽ることなく孤独と向き合い、神に心を注ぎだして訴えかけるとき、神はその人の人生に介入されます。ハガルの物語は、そのことを教えていると思います。

ひとりでいることのできる人が、SNSを有効活用できる

問題はデジタルツールそのものではありません。SNSによって旧知の友人と再会し、交流を深めた経験が私にもありますし、誰もが情報の発信者となれるようになり、これまで押し黙るしかなかった人々が社会に影響を与える道が開かれました。一方、若者のメンタルヘルスの悪化など、負の側面も気づかれてきています。

大切なのは、ひとりでいることができるかどうかでしょう。ボンヘッファーは、孤独の中で自己対話を深め、同調圧力をはねのけて本当に大切なことを優先しました。ハガルは、無条件で愛されているという事実に気づきました。ひとりでいるということを味わい尽くした先に、そのような勇気や気づきが待っていたのです。ひとりを味わう前に手元のスマホで孤独を紛らわしてしまうなら、孤独はいつまでも去らないどころか居座って、深くなっていくことさえあります。

ハガルが、自分はひとりではないと気づいたとき、すぐさましたことが自分の必要を満たすことではなく、他者の必要を満たし(息子に水を飲ませる)、他者の孤独を癒すこと(彼を腕でしっかり抱きしめる)だったことを思い出してください。あなたがひとりでいることができる人となり、孤独から豊かな滋養を引き出すなら、今度はあなたが誰かのそばにいてあげられるようになります。SNSを孤独からの逃避や自分の承認欲求のためではなく、他者を益するために利用する人が増えるなら、殺伐としたサイバー空間に癒しの風が吹くでしょう。

「つながればつながるほど孤独になる」という矛盾

2017年6月に更新されたFacebookの企業ミッションが「bring the world closer together(世界のつながりをより密にする)」であることからも分かるように、SNSは本来、人と人をつなげるツールで、それによって孤独は解消されるはずでした。​しかし、ある調査は、SNSを使って他者とつながればつながるほど孤独になるという皮肉な結果を示しました。​
​​19歳から32歳までに一連の質問をして、SNSの利用頻度・利用時間と孤独指数(PSI)の相関を調べた研究によると、SNS利用時間上位25%のグループは、下位25%よりも3倍以上も孤独指数が高かった。​(『デジタル・ミニマリスト』カル・ニューポート著 早川書房 163頁)​
映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に描かれているような地域社会のつながり(地縁)も、家族・親戚との付き合い(血縁)も希薄になり、終身雇用を前提とする「疑似家族としての会社共同体」も幻想に過ぎなかったと明らかになった令和の時代、ほとんどすべての人が孤独と隣り合わせに生きるようになりました。そんな21世紀の人々の孤独を癒すと期待されたSNSですが、事はそんなに単純ではなかったようです。

孤独からの逃避としてのSNSが孤独を加速させるという矛盾

周囲を見回して、同じようにSNSを利用しているのに、人間関係が豊かになっていく人と、人間関係が破壊されてしまったり、メンタルヘルスを悪化させたりする人がいるのは不思議だと思いませんか。SNSは孤独を解消する夢の薬でしょうか。それともメンタルを破壊し孤独をさらに深める劇薬なのでしょうか。

すべての「道具」は中立です。刃物は名医が握れば救命に、犯罪者が握れば殺人に用いられます。では、SNSをどのように利用すると、人生を豊かにできるのでしょう。逆に、どのような利用法が、人生を蝕んでしまうのでしょう。

孤独には二種類の対処があります。孤独から逃げるか、孤独と向き合うか、です。孤独から逃げるためにSNSを利用すると孤独が加速する。私は、そういうことが起きているように思います。

孤独を味わう、という別の道

ナチス統治下のドイツでは、主要なキリスト教会の指導者までもが、「ドイツ的キリスト者」という概念を用い、ゲルマン民族の優位性を説くナチズムを「神学的に」擁護しました。この流れに抵抗した告白教会の中心人物のひとり、神学者のディートリヒ・ボンヘッファーは投獄され、39歳の若さで獄中死しました。生前の著書『共に生きる生活』で彼はこう言っています。
「ひとりでいることのできない者は、交わりに入ることを用心しなさい。交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい」
つまり、孤独からの逃避として社交に逃げることも、社交からの逃避として孤独に引きこもることも、両方とも人間の本来のあり方から離れていると指摘したのです。仲間の牧師の多くが付和雷同してヒトラーに心酔するなか、周囲に流されず、神の前に正しいと思う確信にとどまり、志を同じくする仲間と共に抵抗運動を続けたボンヘッファーの言葉には深みがあります。