寒さの厳しい冬のある日、教会がホームレスの人たちに配るため200個の包みを作っていました。献品の中に新品の手袋、帽子、靴下、毛布が十分にあるように祈りながら……。温かい汁物と軽食も一緒に配ります。その時、タオルを見つけて驚きました。私は、彼らが寒さをしのぎ、腹を満たすことばかり考えていましたが、体を洗って清潔にすることを考えていた人もいたのです。

聖書は、身体ではなく心と霊性の清さについて語っています。イエスは、この点について、律法学者やファリサイ派の宗教者の偽善を指摘しつつ語られました。彼らは律法を守っていたかもしれませんが、それは非常に限定的でした。なぜなら「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにして」(マタ23:23)いたからです。イエスは、彼らを指して「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている……まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」(25-26節)と言われました。

キリストに清めていただこうとせず、心のきれいな人のように振る舞っても、それは単なる見せかけです。「罪の汚れを洗いきよむるは……」という賛美は、「イエス・キリストの血潮のほかなし」と断言します(聖歌447番)。新しいタオルは外側をきれいにできますが、イエスは、最悪の罪さえ洗い流し、心の内側を清めてくださいます。