アリストテレスは、友人同士は対等なので神々の友になれる人はいないと言いました。天上の地位を捨てて人間と同じ低い身分になる神などいないと。しかしイエスは天の御座を後にして人と同じ者になられました(フィリ2:6-8、コロ1:16)。また、最後の晩餐(ばんさん)(マタ26:26-35)の席では、弟子たちに向かって、今後は彼らを友と呼ぶと言われました(ヨハ15:15)。もしアリストテレスがそこにいたならば、どう感じたでしょう。

きっと、同席者にも驚くでしょう。ローマ帝国に雇われた徴税人マタイとローマに反旗を翻す熱心党のシモン(マタ10:3-4)、「雷の子ら」(マコ3:17)と称されたヤコブとヨハネ、物静かなフィリポが共に集っています。そして、裂かれたパンをご自分の「体」、注がれたぶどう酒を罪の赦しのために流すご自分の「血」(マタ26:26-28)というイエスの言葉を聞いて当惑するでしょう。どんな神が人間ごときのために命を捨てるでしょう。しかもこの人たちは、もうすぐイエスを見捨てるというのに(56節)。

聖餐式の深淵(しんえん)さは、神がイエスを通して人間の友となられたことです。それは政治的信条や性格の違いを越えて友情を育むことを可能にしました。私たちは、聖餐式で、神と人、また、人間同士の友情の常識を変えられたお方を祝っています。