カフェのテラス席で、幼児を連れた夫婦が友人と話していました。ハトが来て床のパンくずをつつき始めると、それを見た子どもは目を丸くし、大人たちの注意を引こうと、楽しそうにキャッキャと叫びました。ところが、大人たちは、彼女の視線の先は見ずに、ちらっとほほ笑みかけると、もとの会話に戻りました。
イエスが弟子たちを宣教の働きに送り出すと大きな成果がありました(ルカ10:17)。主は祈られました。「父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(21節)。この場合の「幼子のような者」は、年齢ではなく立場を示しています。福音に応答したのはエリートではなく庶民でした。一方、知識と教養を備えた宗教家は無視しました(7:29-34)。
ご自分を誰に啓示するかは、神が決められることです。しかしながら、イエスは、知りたいと願う人たちに御国についてより多く語られました(マタ13:36参照)。宗教家たちは、イエスが真に何者であるかを見定められませんでした。なぜなら、それを知りたいとは思わなかったからです。
あの女の子が見た素敵な光景を両親は見逃しました。世の中の見方に気を取られたり、もう分かっていると高慢になったりして、神が見せたいと思われているのに、神の本質を見逃してしまう。私たちは、そういうことがないようにしましょう。
福音を知りたいと思ったきっかけは何ですか。神をさらに知りたいという渇望が、今、どれぐらいありますか。

