
互いの渇望が満たされる
パスカルは、人の心の中には「無限の深淵」があり、神という無限の存在だけが、そこを埋められると語りました。アウグスティヌスは、「あなたがわたしたちを あなたに向けて創られたからです、そのためわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまでは 安らぎをえません」と祈りました。ダビデ王は、砂漠で水を求めるように、私たちの全身全霊は、神を「慕い求める」と語ります(詩63:2)。

神の割り込み
サラは朝、その日にやることを書き出しましたが、家を失った家族にガソリンカードを届けてほしいと急に頼まれました。自分の予定を脇に置いても承諾するのが御心だと思い、教会にカードを取りに出かけると、教会が手配した宿舎はずいぶん遠いと分かりました。サラは「神よ、ガソリン代がかかりすぎます!」と言いました。すると、「君の必要をずっと賄ってきたでしょ?」と、聖霊がささやかれたかに感じました。彼女は、「そうでした。赦(ゆる)してください」と祈りました。そして目的地に着くと、くだんの夫婦にカードを渡し、彼らの赤ちゃんを抱っこさせてもらいました。帰宅の道すがら、神に感謝しました。こんなにシンプルで、こんなに幸せな気分になる奉仕を下さったのですから。
ステップ3-2:みことばの一般的な原則を私たちに当てはめる
■■□みことばの一般的な原則を私たちに当てはめる □■■

私たちの生活にみことばの一般的な原則を当てはめる際、2種類の場合があります。一つ目はそのみことばに登場する人々が私たちと全く同じ状況に直面していた場合です。そのときは、そこで見いだされる一般的な原則をそのまま私たちに当てはめることができます。二つ目は、私たちの置かれた状況が彼らのものと全く同じではないけれども、何らかの対応関係がある場合です。
◆全く同じ状況に当てはめる。
もともとの読者が置かれた状況が現代の私たちの状況と全く同じ、という箇所があります。例えばエペソ人への手紙6章でパウロは次のように書いています。「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、……この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」(11-12節)。比喩として使われているのが紀元1世紀のローマ兵のよろいではありますが、パウロのこの教えは当時と同じように今日でも極めて重要です。なぜなら、私たちの戦いの本質は2000年間変わっていないからです。今日でも私たちの敵は悪霊の勢力であり、私たちの唯一の防具は神の御力です。
同様に、ヘブル人への手紙が当時の読者に「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい」(13:5)と告げていますが、この忠告も色あせることはありません。いつの時代も人々は金銭に執着し、心を奪われてきました。あらゆる時代の人々が「あともうちょっとだけあれば満足なのに!」とつぶやいてきたのです。
どちらの箇所も、私たちを取り巻く状況は当時の読者たちと全く変わりません。そのような場合、彼らに語られた神のみことばは私たちにも全く同じように当てはまります。
◆全く同じではないけれども対応関係のある状況に応用する。

たいていの場合、当時の読者の状況は今の私たちのそれと異なります。そういう場合はピラミッドの上層に目を向け、より大きな原則を見つけましょう。そして、現代の私たちが直面する似たような状況に当てはめます。その際とても大切な事は、みことばの扱っている状況と私たちの状況に本当に対応関係があるかをよく見極めることです。例えば、偶像に献げた肉について、パウロの指針の背後には「あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけ」るという、より包括的な原則がありました(Ⅰコリント8:9)。しかし残念なことに、この箇所やこれに似たローマ人への手紙14章の箇所は、パウロが全く意図しなかった方法で濫用されてきました。
以前は多くの教会が、ドラムやギターを教会内で用いるのはクリスチャンにとって罪だと主張していました。教会の年長者の「つまずきとなる」というのです。彼らはパウロの言葉で自分たちの主張を正当化しようとしたのですが、それは新約聖書時代のコリントやローマの状況とうまく対応しません。パウロにとってつまずきとは「兄弟姉妹に罪を犯させるもの」でした(13節参照)。かたや、ドラムやギターがつまずきだと言う場合、それは年長者にとって不快で好ましくないという意味でした。またパウロの言う「弱い兄弟姉妹」とは、周りに流されて良心の確信なく偶像に献げた肉を食べてしまう人のことでした。教会の年長者が良心の確信なくギターやドラムセットを買うよう誘惑されるのでしょうか。
一方「つまずきを避ける」という原則をお酒の問題に適用するのは妥当でしょう。断酒中のアルコール依存症の人が再び飲酒に立ち戻るきっかけとなり得るなら、私はお酒を飲む自由を放棄するべきです。ここには偶像に献げた肉に関する問題との対応関係があります。
■■□あと一つ不可欠なもの □■■
さまざまな隔たりを越えて聖書を理解し、原則を見いだし、実生活に当てはめる。これは信仰の営みというより、むしろ機械的な作業のようなものでしょうか。このプロセスの中で、神の出番は一体どこにあるのでしょう。神は私たちが見いだして従うべき一連の原則を残していなくなられたのでしょうか。また、もし仮に神のみこころに沿って生きるための原則すべてを聖書から見いだしたとしても、それは本当に実践可能なのでしょうか。神の恵み、そしてその独り子の賜物を頂いていても、その恵みにふさわしい歩みを全うするなど不可能なのではないでしょうか。
この章の始めに引用したキリストのことばを思い出してください。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です」(ヨハネ14:21)。これに続くイエスのことばに、今挙げたさまざまな疑問に答える鍵があります。あと一つ、決して欠かすことのできない鍵です。「わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します」。愛こそ、私たちとイエス・キリストの関係を前に進めていく力です。しかし、他の人への愛と同様に、イエスへの愛も具体的な行動を伴わなければなりません。イエスの願いは、私たちがイエスへの愛の具体的なかたちとして戒めに従う、つまりイエスのように神と隣人とを愛することです。一方でイエスも、ご自身を現し続けることで私たちへの愛を示すと約束しておられます。神のみことばを理解し、それに基づいて生きるとき、私たちはイエスをもっと深く知ることになります。その結果、私たちはイエスをさらに多く愛し、それまで以上に喜んで従います。美しい愛の好循環が実現するのです。
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神がどのようなお方で、私たちのために何を成し遂げてくださり、私たちに何を期待しておられるかをみことばから学ぶとき、「愛の通い合う神の共同体の実現」という聖書全体を貫く壮大なテーマをしっかりと踏まえましょう。そうすればみことばに対する私たちの応答は決して無味乾燥にはなり得ません。むしろ私たちは温かさや愛情、情熱を持ってみことばを実践することで、キリストへの愛と献身を主に表すのです。
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*このプランは弊社公式サイトで公開している同タイトルの探求の書を再構成したものです。こちらのPDF版には、注釈や参考資料などがございます。ぜひご参照ください。
ステップ3-1:みことばの原則を今日に当てはめる
映画『コイサンマン』では、アフリカ原住民の村にある日、飛行機のパイロットが捨てたコーラの瓶が落ちてきます。空から降ってきたということで、村人たちはこれを神々からの贈り物だと考えました。

最初、人々はこの瓶の不思議な見た目に困惑します。奥地なのでそれまで誰もガラスというものを見たこともなければ、瓶について聞いたこともありません。これは一体何なのか、さっぱり分かりません。しかし、しばらくするといろいろな使い道を考えだしました。硬いので木の根を砕くハンマーになります。円柱なのでめん棒としても使えます。口のところを吹けば楽器にもなります。考えれば考えるほど、新しい用途はどんどん出てきます。
ある意味、みことばの原則もこのコーラの瓶のようです。正真正銘の「神からの贈り物」なのですが、初めは一体どうすればいいか分かりません。実生活にどのように活かすかを考え始めてようやく、それがいかに有益かが分かります。
しかし多くの人がつまずくのが、まさにこの点です。みことばの原則を自分の置かれた状況でどう活かすか、時間をかけて考えません。あるいはまったく的外れの状況にみことばの原則を当てはめようとするという間違いを犯します。原住民がコーラの瓶をめん棒にするようなものです。
■■□「もしわたしを愛しているなら」□■■
先ほど見たように、イエスは神と隣人への愛こそ「律法と預言者の全体」の要約だと教えられました(マタイ22:36-40)。聖書の細部に拘泥する当時の風潮の中、イエスは「律法の専門家」に全体像を、つまり律法の背後にあるもっと一般的な原則を求めなさいと言われました。ピラミッドで言えば、底辺から頂点に目を移しなさい、という促しです。

しかし、誤解しないでください。イエスは聖書の細部をないがしろにされたのではありません。十字架に向かう直前、イエスは弟子たちに言われました。「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ14:15)。またこの直後、同じことを次のように言い換えられました。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です」(21節)
つまり、律法の専門家にはピラミッドの底辺から頂上に目を移すよう促された一方、弟子たちには頂点から底辺に降りてくるようにと促しておられるのです。単に頭の中で神と隣人とを愛することを理解しているだけでは不十分で、実際に言動で愛を示さなければなりません。イエスを通して私たちのために御業を成し遂げてくださった神に、私たちははっきりと具体的な方法で感謝を表さなければなりません。聖書のあらゆる規定や教えの背後に神の愛を見いだすことができますが、逆もまた然りです。つまり、みことばのあらゆる規定や命令は、私たちが神や隣人への愛を表す具体的な方法です。
事実、私たちがみことばから見いだす大きな原則は、具体的な教えと不可分です。例えば人を愛するといっても、具体的な行動なしに愛は示せません。忍耐する、親切にする、惜しみなく施すなどの行動が必要です。そして食べ物や衣服、お金などその人が必要としているものを実際に気前よく差し出さなければ、惜しみなく施しているとは言えません(忍耐や親切についても同様です)。目で見え手で触れられるほど具体的な行動を取らなければ、愛することも惜しみなく施すことも口先だけで終わります。
ですから、ピラミッドの上層に登ってみことばの大きな原則を見つけたら、再び下へと降りていかなければなりません。来た道を戻るのです。 各書物の読者たちが生きていた具体的な状況を踏まえ、彼らに与えられた戒めから一般的な原則を見いだしたら、今度は現代の私たちの状況に合わせて、それを再び具体化し直さなければなりません。


新生の生得権
全米プロバスケットボール(NBA)のチーム、ダラス・マーベリックスのオーナーが、シカゴのスポーツ・トーク番組の司会者に、こう申し出ました。「ダラス・マーベリックス」に改名すれば1500万円支払う、さらに、司会者が支援したい慈善団体にも1500万円寄付する、と。この司会者は、しばらく考えた後、きっぱり断りました。そして「金のためなら何でもすると言っているようで嫌だった。名前は生得権だ。私は品位と信用を保ちたい」と説明しました。
ステップ2-4:口先だけの人にならないために&実際に取り組もう
■■□口先だけの人にならないために□■■
1960年代にアメリカの神学校で興味深い実験が行われました。まず、数人の神学生に良きサマリヤ人についての説教を依頼しました。彼らはそれぞれ自分の順番の直前まで他の場所に引き止められていたので、説教原稿を手に構内を一心不乱に駆け抜けなければなりませんでした。途中で具合が悪そうな人がいたのですが、皮肉なことに、立ち止まってその人を助けようとした学生はほとんどいませんでした。「大切な説教」を語らなければならなかったからです!
この章では、具体的なみことばの背後にもっと一般的な原則があるという考え方と、それを発見する基本的な方法をお示ししました。しかし、そうして見いだした原則もこのままでは単なる宗教臭いお説教です。もう一つ、決して欠かすことのできないステップがあります。それは、あなたが今置かれているところでそれを実践するということです。
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■■□実際に聖書に取り組んでみる□■■
コロサイ人への手紙3章22-25節の奴隷たちに対するパウロの言葉は現代の私たちに直接関係がないように思えます。この箇所から、私たちに直接関係するより一般的な原則を見いだしてみましょう。
- まず当時の奴隷について調べてみましょう。「マンガ聖書の時代の人々と暮らし」には次のように書かれています。「ローマでは、法律で奴隷は主人の財産とされていました。主人は奴隷を自分の好きなようにできました。ローマは奴隷のただ働きなしでは、やっていけませんでした」(p84)。 もし他の資料があれば調べてみましょう。
- 働くことが自分の利益に直結しないにもかかわらず、奴隷たちが地上の主人に真心から従うべき理由を、パウロはどのように書いていますか?
- 直後の4章1節から、コロサイの教会の奴隷たちと主人たちについて何が分かるでしょう。(章や節の区切りにこだわる必要はないことを思い出しましょう。)
- 「たいていの場合、新約聖書の著者たちはまず一般的な原則を述べ、その後、具体的な状況へのさまざまな対処を例示します」とありますが、それがこの箇所に当てはまるとしたら、一般的な原則はどこに述べられているでしょう。また奴隷と主人以外の具体例には他にどのようなものが挙げられているでしょう。