万引犯に地元の店の駐車場での洗車という奉仕活動が課されました。その目的は、どんな人の不法行為にも代償が伴うと教え、再犯を防止することです。判事は、どんな人のどんな行為にも結果が伴い、償わねばならないと断言しました。
判事の言葉は、民数記5章6-7節の教え「人が罪を犯すことによって、……責めを負うならば、犯した罪を告白し、完全に賠償し……」を映しています。ここから、神が重要視される点が分かります。つまり、己の過ちをきちんと認識すること、それを言葉で言い表すこと、真摯(しんし)に償おうとすることです。それは、重大な真実を示しています。つまり、全ての違反は、イスラエル社会の理想に対する背信を明らかにし、それを行った者は、自らを「主を欺」(6節)く者と明示した、ということです。
前述の万引犯は、立場のある人でした。判事は、公衆の面前での洗車という刑を科すことで、謙虚さを取り戻し、内省と責任感を育む機会を与えたのです。同様に、神はイスラエルに対し、自分の罪と正直に向き合い、悪かったと告白し、赦(ゆる)しを求めなさい、と呼びかけられました。真の自由は、自分の悪と向き合い、償いをし、神の恵みを頂いた時に訪れます。
今、神の御前で振り返りましょう。和解を求め、償い、人間関係を回復すべきなら、そのように行動しましょう(マタ5:23-24、ルカ19:8-10参照)。そうすれば、神の慈悲と赦しが、私たちを癒やしてくれます。
自分が傷つけた人と和解する一歩は何でしょう。なぜ、損なわれた人間関係を回復することが大切なのでしょう。