開かれた耳
最近、耳が遠くなったので賛否両論のある治療を試すことにしました。それは、耳あかを溶かして、耳を聞こえにくくしている障害物をすべて取り除くというものでした。風変わりな治療法だという感想は否めませんが、どうしてもきちんと聞こえるようになりたかったので、試してみることにしました。
涙の道
アメリカ史上に残る悲惨な出来事として、19世紀初期に行われた先住民の強制大移住が挙げられます。当時、急速に増加する白人たちと数々の条約を結び、アメリカ独立革命をともに戦った先住民たちが、先祖伝来の地から追放されました。1838年の冬、チェロキー族は「涙の道」として知られる1,600キロメートルもの道を西に向かって歩かされました。
行け!行け!
交差点の反対側に、青信号になってもぐずぐずしている車がありました。どこからともなく、「行け、行け!早く行け!」という大声がします。ところが、その車の運転手は、どなり声に驚いてしまったのでしょう。きょろきょろするばかりで前進しません。そのとき私の目に映ったのは、後方の車についている大きなスピーカーでした。何と、これで運転手を怒鳴りつけていたのです。
移動図書館
ゲーム機などができる前、私の少年時代のことです。長い夏休みには、毎週やってくる移動図書館が楽しみでしかたありませんでした。地域の図書館になかなか行けない人たちのために、本棚にぎっしり本を詰め込んでやってくるバスです。この移動図書館のおかげで、たくさんの本を読んで夏を楽しく過ごせました。今でも、この移動図書館が私を読書好きにしてくれたと感謝しています。
及ばない
米国で1970年代に流行したものの中に、バイクジャンプがあります。しかし、1974年9月8日に流行のピークを迎えたと言えるでしょう。その日、アイダホ州のスネーク・リバー・キャニオンには多くの観客が集まっていました。イーブル・ニーブル氏の乗る蒸気を使った特注マシン「スカイサイクル」が谷を飛び越えられるか見物しにきたのです。結局、この試みは失敗に終わりました。
死に至るまで忠実
イギリスのリバプールにあるウォーカー・アート・ギャラリーには、古代都市ポンペイの忠実な護衛兵の絵があります。この絵は、考古学者が発掘したポンペイの遺跡から見つかった、火山灰に埋もれた完全武装のローマ兵を題材にして描かれました。紀元79年のベスビオ火山の噴火によって、ポンペイの人々と町は、一夜にして灰に埋ずもれました。
目を覚ます
初秋のある朝、まだ外が暗いうちに家を出て車で事務所に向かっていました。すると突然、ヘッドライトで照らされた前方を茶色いものが横切り、次の瞬間、何かが当たった音がしました。私は時速110キロで走りながら、鹿に接触してしまったのです。かすった程度でしたので、車は(おそらく、鹿も)大丈夫でしたが、私は大いに動揺しました。
変える
エリザベスの話は、感動的でした。彼女は、マサチューセッツであまりにも屈辱的な経験をしたので、居ても立ってもいられずニュージャージー行きのバスに飛び乗り、恥ずかしさから逃れようとしました。バスの中でも泣き続け、バスが停車したことにさえ気づきませんでした。後ろの席に座っていた知らない人が降車しようと通り過ぎましたが、突然立ち止まり、引き返してエリザベスのところへやってきました。そして、泣いている彼女に「これが必要かもしれないね」と言いながら、聖書を手渡しました。彼の言うとおりでした。けれども、エリザベスに必要なのは、聖書だけではありませんでした。それは、聖書が語るキリストでした。エリザベスは、見知らぬ人のささやかなあわれみの行為によって聖書を手にし、イエスの救いを受け取りました。
イエスは私たちの模範です。マタイ9章には、「…群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」と書かれています(36節)。イエスは、傷ついた人々の痛みや苦しみに気づかれただけでなく、弟子たちにチャレンジを与えられました。滅びゆく世の苦しみや欠乏に応答して、働く人を送り出してくださるように祈りなさいと言われました(38節)。
キリストの模範に従っていくなら、あわれみの心がわき起こり、羊飼いのいない人々の人生を変えてあげたいと行動せずにはいられなくなるでしょう。
加えても省いてもいけない
私たちは聖書のメッセージの扱い方をいとも簡単に間違えてしまうと、最近読んだ本に書かれていました。私たちは、神が語っておられるメッセージを汲み取ろ うとするより、自分の意見を後押しするために聖書を用いようとしがちです。ある人たちは、聖書を用いてあることを「是」としますが、別の人たちは、聖書を 用いてその同じことを「否」とします。つまり、双方とも自論の根拠に聖書を用いますが、どちらも正しいはずはありません。
神のことばを用いるときに大切なのは、聖書が語っていることに付け加えたり、省いたりしないことです。みことばの扱い方を誤るなら、みことばを誤っ て伝え、ひいては、間違った神の姿を伝えることになります。ですから、パウロは「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き 手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」とテモテに言ったのです(Ⅱテモ2:15 新共同訳)。「キリストのために働いている」と言っても恥ずかしくない認められた働き人にとって、優先すべきことは何でしょう。それは、神のことばを正し く解釈する(正しく伝える)ことです。聖書を学ぶときは、聖霊に頼りましょう。聖霊は神の霊ですから、神の霊感によって書かれたみことばを私たちが理解 し、知恵を得られるよう助けてくれます。
私たちには、自らの言動によって神のみことばを伝える機会が与えられています。どうかその時、純粋に神のみこころを映し出すことができますように。これは、クリスチャンにとって人生最大の特権のひとつです。