変える
エリザベスの話は、感動的でした。彼女は、マサチューセッツであまりにも屈辱的な経験をしたので、居ても立ってもいられずニュージャージー行きのバスに飛び乗り、恥ずかしさから逃れようとしました。バスの中でも泣き続け、バスが停車したことにさえ気づきませんでした。後ろの席に座っていた知らない人が降車しようと通り過ぎましたが、突然立ち止まり、引き返してエリザベスのところへやってきました。そして、泣いている彼女に「これが必要かもしれないね」と言いながら、聖書を手渡しました。彼の言うとおりでした。けれども、エリザベスに必要なのは、聖書だけではありませんでした。それは、聖書が語るキリストでした。エリザベスは、見知らぬ人のささやかなあわれみの行為によって聖書を手にし、イエスの救いを受け取りました。
イエスは私たちの模範です。マタイ9章には、「…群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」と書かれています(36節)。イエスは、傷ついた人々の痛みや苦しみに気づかれただけでなく、弟子たちにチャレンジを与えられました。滅びゆく世の苦しみや欠乏に応答して、働く人を送り出してくださるように祈りなさいと言われました(38節)。
キリストの模範に従っていくなら、あわれみの心がわき起こり、羊飼いのいない人々の人生を変えてあげたいと行動せずにはいられなくなるでしょう。
加えても省いてもいけない
私たちは聖書のメッセージの扱い方をいとも簡単に間違えてしまうと、最近読んだ本に書かれていました。私たちは、神が語っておられるメッセージを汲み取ろ うとするより、自分の意見を後押しするために聖書を用いようとしがちです。ある人たちは、聖書を用いてあることを「是」としますが、別の人たちは、聖書を 用いてその同じことを「否」とします。つまり、双方とも自論の根拠に聖書を用いますが、どちらも正しいはずはありません。
神のことばを用いるときに大切なのは、聖書が語っていることに付け加えたり、省いたりしないことです。みことばの扱い方を誤るなら、みことばを誤っ て伝え、ひいては、間違った神の姿を伝えることになります。ですから、パウロは「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き 手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」とテモテに言ったのです(Ⅱテモ2:15 新共同訳)。「キリストのために働いている」と言っても恥ずかしくない認められた働き人にとって、優先すべきことは何でしょう。それは、神のことばを正し く解釈する(正しく伝える)ことです。聖書を学ぶときは、聖霊に頼りましょう。聖霊は神の霊ですから、神の霊感によって書かれたみことばを私たちが理解 し、知恵を得られるよう助けてくれます。
私たちには、自らの言動によって神のみことばを伝える機会が与えられています。どうかその時、純粋に神のみこころを映し出すことができますように。これは、クリスチャンにとって人生最大の特権のひとつです。
山鳴らし
ミシガン州のアッパー半島に行ったとき、ある2本の木が目にとまりました。周囲の木の葉はじっとしているのに、この2本の木の葉だけは、ほんの少しの風でハタハタと揺れています。それを指差すと、妻は、あれはアメリカヤマナラシ(山鳴らし)だといいました。