神の恵みの賜物
大学で文章を教えていますが、非常に良くできた学生の提出物を見て、でき過ぎていると思いました。調べてみたら案の定、ネット情報の丸写しでした。
キリスト者の交わり
日曜日の朝の礼拝後に会堂の照明を消して戸締りをする担当者は誰でしょう。誰だったとしても、その人の昼食は遅めになるでしょう。というのも、私たちの教会では、多くの人が礼拝後に会堂内で立ち話をするからです。それぞれに人生の決断や生活上の悩みや困難があり、それらを話し合っています。礼拝の終了後20分ほど経っても、多くの人が楽しそうに一緒にいる光景を見るのは嬉しいものです。
神の御前にみな、平等
夫婦で休暇中に早朝サイクリングを楽しみました。大豪邸が並ぶ地区を通ると、そこにはいろいろな人がいました。犬の散歩をする人、サイクリングをする人、新しい邸宅を建てる労働者、地域の美観のために働く人などです。あらゆる社会層の人がいましたが、そこで大切な事実を再確認しました。私たちはみな、同じだということです。金持ちでも貧乏人でも、資産家でも労働者でも、有名でも無名でも。聖書が「富む者と貧しい者が出会う。どちらもみな、造られたのは主である」(箴22:2)と語る通り、異なる部分があっても、万人は神のかたちに造られたのです(創1:27)。
名刺と祈り
最近、事故で夫を失った女性は、生命保険金の申請のために事故に関する資料が必要でした。しかし、協力を約束してくれた警察官の名刺を紛失してしまい不安でした。彼女は神の助けを求めて祈りました。ほどなくして、彼女は教会にいました。窓際を歩いていると、窓台の上にその名刺があったのです。どうやってそこにたどり着いたのでしょう。しかし、なぜかは分かりました。彼女が真剣に祈ったからです。当然です。聖書は、神が私たちの願いに耳を傾けられると述べているのですから。使徒ペテロも「主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる」(Ⅰペテ3:12)と語ります。
いのちを見つける
ブレットがキリスト教系大学で聖書を専攻するのは自然な成り行きでした。クリスチャンに囲まれて育ってきたからです。牧師になりたいとさえ思っていました。
質問
アンは旧知の口腔外科医の診察を受けました。最後に「何か質問はありますか」と聞かれると「はい。先生は今週の日曜日、教会に行かれましたか」と尋ねました。教会に行かなくても批判するつもりはありません。ただ、信仰の話をするきっかけが欲しかったのです。
いろいろなアプローチ
偉大な宣教師デービッド・リビングストンが始めた働きに関わることに興奮して、メアリー・スレッサーは、カラバル(今のナイジェリア南東部)に赴きました。1800年代終盤のことです。初めは宣教師の中で暮らして学校で教えましたが、やがて別の導きを感じました。当時としては珍しく、現地人のコミュニティに移り住んだのです。そして、彼らの言語を学び、生活様式を取り入れ、同じものを食べました。また、十数名の孤児を引き取りました。彼女は約40年間、その地に福音と希望を届けたのです。
暗闇から光へ
アカシュはトラック事故で重傷を負い、南西アジアのキリスト教系の病院に運ばれました。8回の手術で骨折は治りましたが、食欲を失くしました。うつ病です。家族を養わねばならないのにできません。前途が真っ暗になりました。
惜別の言葉
米国の著名な公民権活動家ジョン・M・パーキンスは人生の終わりに語りました。「悔い改めだけが神に立ち返る方法です。悔い改めなければ、あなたたちは滅んでしまう」