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寄稿一覧 Karen Huang ( ゲスト寄稿者 )

愛してくれますか

リンリンは10歳の女の子。養女になりましたが、不安でした。孤児院では些細(ささい)な失敗でもひどく罰せられました。養母である私の友人に「ママ、私のこと好き?」と聞き、「もちろん」と答えると、「もし失敗しても好きでいてくれる?」と、さらに尋ねたそうです。

御名を頼りにする

子どもの頃、学校が辛くなった時期がありました。数人の女の子たちからひどいいじめを受けていたからです。そこで、休み時間は図書館に逃げ込んでキリスト教の児童小説を読んでいました。初めて 「イエス」という名前を見たときをよく覚えています。なぜか、私を大切にしてくれる方の名前だと思いました。その後の数ヶ月、いじめを恐れつつ学校の門をくぐるとき、「イエスさま、私を守ってください」と祈りました。イエスに見守られていると思うと落ち着き、心強く感じました。やがて、彼女たちは私をいじめることに飽きて離れていきました。

私の助け主

月曜日の朝、友人のチアミンは風呂場の掃除をしていました。失業してひと月、再就職は難しそうです。前の会社はコロナ禍で廃業しました。これからのことを考えると不安でした。家族を養わなければいけないのに、いったい誰が助けてくれるだろうと考えました。

神の眼差し

シングルマザーのアルマは、早朝が嫌いだと言います。静けさは不安を呼び、家事をしていても、お金の心配や、子どもたちの健康や学業のことを考えてしまうと言います。夫が出て行ってから、女手ひとつでこどもを養育するのは大変だけれども、神が目を留めておられることを信じていると言います。仕事を掛け持ちする体力をくださって日々の必要を賄い、子どもたちが神の教えを毎日受け取るように導いてくださると語ります。

高慢と欺まん

私は「愛する神よ、あなたの思いやり深い懲らしめを感謝します」と小声でつぶやきました。思いあがっていたと認めるのは辛いことでした。次々と仕事が成功して称賛を受ける中で、私は神の導きを拒んで自分の能力に頼っていました。自分の実力などたいしたものではないと難しい局面にぶつかって気付きました。神の助けがなくても大丈夫と、己の高慢さにだまされていたのです。

神は知っておられる

リアは台湾に出稼ぎに行くことにしました。看護師の仕事が少ないマニラより家族のために稼げると思ったのです。出発前夜、5歳の娘を託す妹に教えました。「スプーン1杯のピーナッツバターをあげると、ビタミン剤を飲んでくれるから……、あの子は内気だけど、そのうち、いとこたちと遊ぶようになるわ。あの子は暗いのが怖くて……」

まことのもてなし

私の故郷のフィリピンでは、誰かの家に行くと「もうご飯食べた?」とよく尋ねられます。これは、訪問客に対する厚意と気遣いを示す言葉で、どんな返事をしようとも、何らかの食べ物がふるまわれます。フィリピンの人たちは、本当の思いやりは、お決まりの挨拶を超えて、目に見えるもてなしをすることだと考えています。

神の平安

職場の権力闘争に巻き込まれて、忍耐の数か月を過ごしましたが、心は不思議なほど平安で、不安を感じることなく平静でした。私は生来の心配性です。この平安は、神をおいて他にないと思いました。一方、全てが順調なのに、常に心が騒いでいるという経験をしたこともあります。その原因は、神の力と導きではなく、自分の力に頼っていたからです。振り返ってみると、真の平安、すなわち神の平安は、その時の状況ではなく、神に対する信頼の度合いによると分かります。

生き抜く力

父は2006年に神経系の病気になりました。記憶力低下、言語障害、運動障害が起こり、2011年に寝たきり状態になって以来、母が自宅で介護しています。発症当時は不安で真っ暗闇にいるようでした。私は介護について何も知らず、家計や母の健康も心配でした。