未来を助ける
心理学者のメグ・ジェイは、人は未来の自分を赤の他人のような感覚で捉えると言います。その理由は、おそらく「感情移入ギャップ」でしょう。知らない誰かに共感したり、その人を思いやったりするのは困難ですが、その誰かが将来の自分だというのです。そこで彼女は、若者が未来の自分を思い、尊重できるように手助けします。たとえば、将来を見据えた行動計画を作成し、夢に向かって健全に成長する道しるべを作ることです。
謙遜は真理
神はなぜ、謙遜は非常に価値あることと言われるのかしら、と16世紀の聖人アビラのテレサは黙想していました。すると、神は究極の真理であり、謙遜は真理だと啓示されました。私たちの内から何も良いものは出ない。それは、恵みの水から、たましいが水辺に留まるそのところから出る。そのたましいは、水辺に植えられた木のようで、そのお方は太陽のように、私たちの労働にいのちを与えてくださる。私たちをこの真理につなぎとめるのは祈りであり、祈りの土台は謙遜。謙遜に祈れば祈るほど、神は私たちを引き上げられる、と理解しました。
見当はずれ
トーマス・キーティング著の『人間の条件』の中に、家の鍵を失くした教師の話があります。草むらで探し回る様子を弟子たちが見て、一緒に探しますが、見つかりません。ついに、弟子が「失くした場所に心当たりは?」と尋ねると、「もちろん、家の中だ」と先生。「えぇっ!では、なぜここで探すのですか?」「そりゃ、明るいからだ」。なんと見当はずれな話でしょう。
信頼できる愛
私の心には複雑な感情が渦巻いていました。以前、親しい人の行為に深く傷つき、それを当人に伝えたことで、絶交という結果になった辛い経験があります。相手がはぐらかしたからです。彼女が地元に戻ってきていることを今日聞いて、過去がよみがえり、心が乱れました。
刻まれた悲しみ
珍しいタイプの完治できない脳腫瘍と診断された後、キャロラインは、新たな生きがいを見つけました。難病の子どもとその家族の写真を撮る奉仕です。絶望の淵の悲しみだけでなく、奇跡のような美しい瞬間が記録され、子どもたちの家族は、共に過ごした大切な時間を心に刻めます。キャロラインは、極限の困難にあっても、いやむしろそれだからこそ、これらの家族は愛を選択していると気付きました。悲惨な現実と、美と希望。悲しみの真実には驚くべき力があります。
認知の境界線
新型コロナウイルスの影響で、夫が一時解雇になりました。神が生活を守ってくれると信じていましたが、具体的なことは分からず不安でした。心を静めようと、大好きな詩を読みました。それは、16世紀の宗教改革者、十字架のヨハネの「我、入るも、何処か分からず」と題された詩で、自己を明け渡す旅の中で見いだす不思議を歌っています。認知の境界線を超えると、神をあらゆる形で認識すると語ります。
人のことを喜び祝う決断
作家のマリリン・マッケンタイヤーは「嫉妬の反対は共に祝うこと」と友人に教わったと語ります。友人は障害と慢性痛のために才能を十分に開花させられませんでしたが、なぜか人のことを喜び祝う独自の術を習得し、亡くなる前には出会いの全てに心から感謝していました。
イエスのように完全
カスリーン・ノリスは、現代の完全主義は、臆病になりすぎて必要なリスクを取れなくなる極めて不健全な心理状態だと言います。一方、マタイの福音書で「完全」(5:48)と訳された単語は、成熟、完成、全人的を意味すると述べます。つまり、「完全であるとは、成長の余地を残しつつ、他人に尽くせる程度に大人であること」と結論づけました。
偉大な知恵
教父と慕われたヨハネス・クリュソストモスは、人を霊的にケアすることの複雑さについて「牧会者にはあらゆる角度からたましいの状態を検証できる偉大な知恵と千の目が必要だ」と述べました。心癒やされよと強制することは誰に対してもできないので、手を差し伸べるには、大きな共感と思いやりが必要です。しかし、それは痛みを伴ってはならないという意味ではないと言います。「深い部分を手術すべき人を大目に見て浅くしかメスを入れないなら、がんを見逃してしまうかもしれない。一方、どんなに必要なメスであっても、情け容赦なく切り込めば、患者は苦痛に耐えかねて全てを捨て……身を投げてしまうかもしれない」。