打ち勝つ
ラジオでセミナーの宣伝をしていました。「死に永遠に勝ち続けよう。その方法をお教えします」と面白いことを言っていました。どんな方法で死に勝ち続けられるというのだろうと、少し興味を持ちました。ダイエットかエクササイズ、または死後の身体を冷凍するという類の話かしらと思いましたが、実は私の聞き違いで、正しくは「借金に勝ち続け…」でした。(注:英単語の「死」と「借金」は音が少し似ています。)
最高のニュースは、イエスが私たちの負債を支払ってくださったので、私たちは死に打ち勝つことができるというものです(Ⅰコリ15:55-57)。罪という負債があると、神から切り離されています。しかし、イエスは自らすすんで十字架にかかり、ご自分のいのちで私たちの負債を払ってくださいました。マグダラのマリヤと他のマリヤは、イエスの死から3日目にイエスが葬られた墓を訪れましたが、御使いが現れて「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです」と語るのを聞きました(マタ28:6)。ふたりは大喜びで弟子たちにそれを知らせに行きましたが、その途中、イエスがふたりの前に現れました。主は「平安あれ」(口語訳 9節)と言われました。イエスは復活され、イエスに従う人たちには喜びが与えられました。
イエスは死のとげを取り去られました(Ⅰコリ15:55)。神の御子イエスの死と復活を信じるならば、私たちもまた勝利します。イエスの完全な御業によって、私たちは永遠に死に勝ち続けられます。
勝利の叫び
冒険家アーロン・ラルストンの自伝を読みました。彼は単独登山の最中、渓谷の奥深くで落石に遭って腕を挟まれて身動きが取れなくなりました。発見される可能性はほどんど無く、体力も消耗していきます。彼は生き延びるために挟まれた自らの腕をサバイバルナイフで切断する決心をします。耐えがたい痛みの中で、アーロンは苦しみと勝利の叫び声をあげます。アーロンは落石から脱出し、生き延びたのです。
イエスの十字架刑に立ち会った人たちは、イエスが何時間も苦しまれた後、大声で「完了した」と言われてご自分の霊を渡されたのを目撃しました(ヨハ19:30)。イエスの最後の言葉は痛みの嘆きではなく、勝利の叫びでした。イエスは、天の父に遣わされた目的を果たされたのです。
イエスは死なれました。私たちもいずれ死を経験しますが、イエスの死は特別です。私たちの死では決して成し得ないものを達成してくださいました。イエスの死によって、私たちの罪が贖われ、私たちの罪が赦され、私たちに永遠のいのちが与えられました。
「完了した」とは主イエスの勝利の叫びです。イエスを信じることで、私たちは罪の奴隷から解放され、自由といのちを得ました。
クリスチャンは、イエスが犠牲になってくださった日を記念して「グッド・フライデー」と呼んでいます。
すでに夜であった
フィラデルフィアに出張していたのは、イースターの前の木曜日でした。近くの教会で特別な礼拝があり、それに参加しました。それは小さなチャペルで、ろうそくのともしびだけで行われました。聖餐式が執り行われ、パンと杯にあずかりました。それからヨハネの福音書の一節が音読されると、一本のろうそくが消えました。そして私たちは、イエスが十字架に進まれるという賛美歌の一節を歌いました。これが14回くり返されます。すると、ろうそくが全部消えて、部屋の中は真っ暗になりました。暗い静寂の中、私たちはひざまづいて祈り、沈黙したまま、ひとり、またひとりとチャペルを後にしました。
このような礼拝がイースターの前にあると、その中で私たちはイエスの死を取り巻く闇を思い出します。イエスは最後の晩餐の席で、弟子のひとりが裏切ると話されました(ヨハ13:21-30)。それがユダであることをイエスは知っておらました。聖書は「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった」と語ります(30節)。
これはイエスの生涯で最も暗い夜でした。イエスはゲツセマネの園で苦しみながら祈り、不当に逮捕されました。また、宗教指導者たちの侮辱に耐え、ペテロの拒絶に心を痛められました。それでもイエスはまっすぐに十字架に向かって歩まれ、私たちの罪のために死んでくださったのです。
イエスは、私たちに光といのちを与えるために、暗闇と死を耐え忍んでくださいました。何とありがたいことでしょう。イエスを賛美しましょう。
文脈から離れて
無造作に投げやりな言葉を言い出した人に、友だちが励ましたり、アドバイスをしたりしました。ところが、その人は、単に面白がってある歌の歌詞を文脈から離れて口にしていただけでした。親身になって助けようとした人たちは、時間を無駄にしたのです。アドバイスも不必要でした。誤解を生む発言をした人が引き起こした問題は、今回のところ大して深刻ではありませんでしたが、人騒がせな言動につき合っている間に、もっと大切なことをしたり、本当に助けが必要な人に手を差し伸べることができたかもしれません。
人の関心を引くために文脈を無視した引用をしたり、議論に勝とうと屁理屈をこねたりする人がいます。さらに悪いのは、力関係で優位に立とうと、真理をゆがめる人です。その人たちは他人の人生のみならず、たましいにまで危害を及ぼします。
言葉を巧みに操って、相手を自分の思い通りに行動させようとする人、さらには、聖書のみことばを文脈を無視して用い、不正なことを正しいと相手に信じさせて行わせようとする人がいます。このような行為から身を守る手段は、ひとつしかありません。それは聖書を知ることです。私たちは、神が聖書の中で何を教えておられるか、きちんと知らなくてはなりません。イエスは、真理によって誘惑を退けることができました(ルカ4章)。私たちにも同じ真理が与えられています。神は聖書と聖霊をくださいました。これらが、私たちを導きます。私たちがだまされたり、道を逸脱させられたりしないように守ってくれます。
世界は御父のもの
アマンダはカリフォルニア州サン・ディエゴ市にあるキリスト教系の大学の2回生でした。彼女は、クリスチャンが地球環境保全に果たすべき役割について、再考させられました。今までは、自分が救われていることと地球環境に配慮することに関連性があると意識していなかったのですが、クリスチャンに果たすべき役割があるとチャレンジを受けたのです。特に、世界中の困窮している人たちに福音を届けるということと、地球環境の関連を考えさせられるうちに、彼女は大きく成長し、変わっていきました。
クリスチャンには、神が創られた美しい世界をみこころにそって管理し、そこに住む人たちが幸せに暮らせるように配慮する責任があります。この責任を果たすことによって、私たちは自らが神を敬っていることを示します。この責任は、次のふたつの聖書の原則に基づいています。
初めの原則は、「地は神のもの」だということです(詩24:1-2)。詩篇の作者は、万物の創造主である神を賛美します。天と地、そしてそこにあるすべてのものは神のものです。神が創造し、神が君臨し(93:1-2)、神がそれらをいつくしまれます(マタ6:26-30)。第2の原則は、世界が健全に営まれるように守り導く責任を、神が私たちに授けたということです(創1:26-28)。私たちは、自然も人も尊んで守らなければなりません(レビ25:2-5、11節、箴12:10、ロマ15:2)。
地球環境は、私たちの御父のものです。それを尊重し、その中に住む人々に心を配ることによって、自分がどれほど神を愛しているか、神に示していきましょう。
賞を目指して走る
アイディタロッド・トレイルレースは、毎年3月にアラスカで行われる犬ぞり競走です。そりを引く犬たちとマッシャーと呼ばれる御者は、アンカレッジからノームまでの1,670キロあまりの道のりを8日から15日間かけて走り、その速さを競います。2011年の覇者ジョン・ベイカーと彼の犬たちは、全工程を8日間と19時間46分39秒で走り抜きました。マッシャーと犬たちのチームワークは素晴らしいものです。また、彼らは勝つために、執拗(しつよう)ともいえるほどに努力を惜しみません。優勝者には現金と小型トラックが贈られますが、極めて過酷な天候の中、あれほど辛抱したことに比べれば、この賞金や賞賛はあまりにはかなく、大したものではないように思えます。
使徒パウロにとっても、レースの興奮は馴染みの概念でしたが、彼はそれを永遠を思い描くために用いました。パウロはこう書いています。「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」(Ⅰコリ9:25)。
私たちは時に、一時的な報酬に目を奪われそうになります。しかし、そのような報酬は、時間とともに消え去ります。一方聖書は、永遠に続くものに目を向けなさいと促しています。私たちは、永遠に続く霊的なインパクトの報いを追い求めながら、神をあがめましょう。
まずは基本
孫のサラがまだ幼かったころ、大きくなったらお父さんのようなバスケットボールのコーチになりたいけれども、今はできないと言いました。なぜなら、コーチになるためにはまず選手になって、靴の紐を締めなければならないけれど、自分にはまだそれができないからだそうです。
「まずは基本が肝心だ」とよく言われますが、人生の基本は神を知り、神を喜ぶことです。神の存在を認め、神というお方を知るならば、「このような人に…」と意図して創られた人になることができます。ダビデ王が息子ソロモンに与えた勧告は、「わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい」です(I 歴 28:9)。神を知ることは可能だということを忘れないでください。神は、単なる神学的な概念や論理ではありません。人なるお方です。人と同じように、考え、意志、喜び、感覚、愛、願望を持っておられます。A. W. トーザーは、「神は人格を持ったお方であり、私たちが心を整えてその奥義を知ろうとすれば、それに従ってますます親しく知ることができる」と書いています。この言葉の重要な点は「心を整える」です。
神は、ご自分を知るために、人に大きな努力を強いたりなさいません。神を知りたい人はだれでも、神を知ることができます。神はご自身の愛を私たちに押し付けるお方ではなく、私たちが歩み寄るのを忍耐強く待っておられます。神はあなたに知ってもらいたいと思っておられます。神を知ることが人生の基本です。
全部は出来ない
ベッドに入る前、4歳のエリアーナは母親と一緒に自分のものを片づけていましたが、「ベッドの上の洋服を片付けなさい」と言われてかんしゃくを起こしました。小さな手を腰に当てて、「全部できないわよ」と怒鳴りました。
神に召されたことをしているとき、この子のように感じたことがありますか。教会の奉仕をし、良い証を立て、子育てもして、いっぱいいっぱいです。イライラし、ため息をついて、「主よ、全部はできません」と祈ります。
けれども、神の教えを見るなら、ギリギリまで頑張ることが期待されているのではないと分かります。例えば人間関係について、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と言われました(ローマ12:18)。「自分に関する限り」という条件が付いています。神は、私たちの限界をご存じです。また、「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心からしなさい」と言われ(コロ3:23)、人にすごいと思われるような完璧さはなくても、神にささげるつもりで仕事をしなさいと語られます。さらにもうひとつ加えれば、「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」と言われ(ガラ6:4)、他人と競うのではなく、ただ負うべき自分の荷を負いなさいと教えられます。
神の知恵によって、神は各人に備えをくださいました。それによって、私たちはそれぞれ、神がして欲しいと思っておられることをするのです。これは決して全部ではありません。
生ける証
ウォッチマン・ニーは1952年、キリストを信仰しているという理由で捕えられ、死ぬまで獄中にいました。1972年3月30日に亡くなったとき、姪がほんのわずかの持ち物を取りに行くと、看守がベッドの横で見つけたという紙の切れ端をくれました。そこには彼の生涯の信仰告白が書かれていました。
「キリストは罪人の贖いのために死に、三日後によみがえられた神の御子である。これは宇宙で最も偉大な真理だ。私はキリスト信仰のゆえに死ぬ。―ウォッチマン・ニー」
使徒パウロもキリスト信仰のために殉教したと伝えられています。死ぬ少し前に書いた手紙の中で次のように述べ、読者を励ましています。「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。私は、福音のために、苦しみを受け…ています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。」(Ⅱテモ2:8-9)
歴史上、何百万、何千万というクリスチャンが殉教しました。私たちは、殉教者になるように召されてはいないかも知れませんが、イエスが自分のために何をしてくださったのかを実証するようには召されています。私たちは、神の恵みあふれる贈り物に感謝して、相手の反応はどうであれ、イエスが自分にしてくださったことを伝えていきましょう。