境界線で
ミシガン州グランドラピッツ市のフレデリック・マイヤー植物園には、蝶を孵化させる温室があります。この場所は、蝶の成育にとって最適の条件が整っています。気温や湿度が管理され、カロリーと栄養のバランスのとれたエサが準備されています。この温室の中にいれば十分です。どこかに行く必要はありません。ところが、何羽かの蝶は、ガラス張りの温室の外に広がる明るい青空にひきつけられ、豊富な食糧から遠く離れた天井のあたりを飛んでいます。
こんな蝶々に言ってあげたくなります。「君に必要な物は、みんな中にありますよ。外は寒くて厳しいの。あこがれの外に飛び出したら、数分のうちに死んでしまうわ。」
これは神からのメッセージかもしれないと思って、私は自問します。私は有害なものにあこがれていないでしょうか。不必要なものや、持つべきでない物を手に入れようと、エネルギーを費やしていないでしょうか。神の豊かな備えに目を留めず、手の届かないものを良い物と想像していないでしょうか。不信と信仰の境界線の辺りでうろうろしていないでしょうか。
神はキリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださいます(ピリ4:19)。無いものを手に入れようともがく代わりに、心を開きましょう。そして、神がすでにくださったすべてのものを感謝して受け取りましょう。
ちょうど良い
この「デイリーブレッド」を執筆するのは私の大好きな仕事ですが、短いデボーションエッセーで100パーセント伝えたいメッセージを言い表すのは大変です。友人に「もう少し長く書けると良いのだけれど…」と愚痴をこぼすこともまったく無いわけではありません。
今年の聖書通読のスケジュールに従ってマタイの福音書を読んでいて、あることに初めて気づきました。キリストがサタンに誘惑されるところは(マタ4:1-11)、なんて短いのだろうと思ったのです。このマタイの記した、聖書の中心的な出来事のひとつは、ほんの半ページほどで記されています。短いけれど力強い聖書個所が、他にも思い出されました。詩篇23篇や、マタイの福音書6章9-13節にある主の祈りです。
伝えるべきことを伝えるために、言葉数が多くなくても良いことは明らかです。ただ、言葉を賢く選ばなければなりません。人生の他の分野にも同じことが言えます。時間やお金、空間なども多い少ないではなく、いかに賢く用いるかです。神のみことばは、神の国とその義を求める者の必要を満たすと断言しています(マタ6:33)。詩篇を書いたダビデもまた、「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」(詩34:10)と私たちを励ましてくれます。
もしも今日、「もう少しあれば…」と思っているなら、愚痴をこぼす前に考えてみましょう。あなたに「ちょうど良い」ように、神は与えておられるのではありませんか。
もっと、もっと、もっと!
◆ 民数記34-36
最近、言葉を話し始めた娘は「もっと」と言うのがお気に入りのようです。ジャムを塗ったトーストを指差して「もっと」と言い、夫が子ブタの貯金箱にコインを入れてあげると、手を伸ばして「もっと!」と言います。ある朝、職場へ行く夫に「もっと!パパ!」と叫んだほどです。