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最終章

推理小説を読むときは、まず最後の章を読むという友だちがいます。「不安にならずに小説を読むため」だそうです。クリスチャンも同じです。私たちは物語の結末を知っているので、混沌のただ中にあっても平安の中心になることができます。災難に遭遇しても、落ち着くことができます。

完全に消えるまで

ワルド・キャニオンで2012年6月に発生した山火事は、コロラド・スプリングス一帯の住宅346棟を焼失させ、山林7,300万ヘクタール以上に延焼しました。当局は、延焼を食い止めるために防火線を設け、山火事をその中に閉じ込めることができたと発表しましたが、その地域は完全な鎮火が確認されるまで、他の地域と分断されていました。当局は、まだその地域で煙が上がる可能性があるとして地元住民に注意を促しました。火は小康状態になっただけで、完全に消えているわけではないからです。

祝福された望み

世の終わりに関するたくさんの予言が、出ては消えていきます。そうした予言は、人々に不安と恐怖を与えます。一方、聖書は、主イエスが再臨される「主の日」と呼ばれるときがあることを伝えています。その日はやってきますが、それがいつなのかは、神だけがご存知です。

デビッド、よくやった

デビッド・シュムは、脳性麻痺に侵されながらも楽天的で、忍耐強く、信仰深い人でした。私たちは彼の葬儀で、彼の人となりを心からたたえました。彼の74年の生涯は、日常生活の簡単な作業さえも労苦する大変なものでした。にもかかわらず、笑顔を絶やさず、病院で2万3千時間以上もボランティア活動をしたり、家庭環境に問題のあるティーンエイジャーを支える働きに携わったりしました。

デビッドは生前、自分の葬儀の聖書朗読は、イザヤ書35章3節~10節にしてほしいと言っていました。「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。…そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ』」(3-4、6節)。このみことばは、捕囚の身となったイスラエル人に向けて語られた神の約束です。私たちクリスチャンにとっては、キリストが再臨されるという希望を再確認させてくれるみことばでもあります。

デビッドは生涯最後の数週間、見舞いに来る人たちに、ベッド脇にあるイエスの大きな絵を指して、「主イエスはもうすぐ、ぼくを迎えに来てくれるよ」と話していました。これは、神の子どもたちすべてに賜った希望です。だから私たちは、イエスに感謝し、イエスを賛美するのです。

いつかは不明

1年で聖書を!
◆ アモス書1-3
聖書のみことば マタイ24:1-8

その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。―マタイ24:36

多くのロンドン市民は、1666年がイエスの再来の年だと思っていました。予言に凝る人たちは、キリスト誕生後1000年に反キリストの数字の666を足して1666という数字を導き出しました。1665年には10万人のロンドン市民の生命が伝染病で奪われ、世も末だと思われました。

ライオンでもある小羊

1年で聖書を!
◆ 詩篇61-63
聖書のみことば 黙示録5:1-12
 
イエスの御名によって、……すべてが、ひざをかがめ、すべての口が「イエス・キリストは主である」と告白して、―ピリピ2:10-11

ユダ族から出た獅子(黙5:5)、ほふられた小羊(6節)と、使徒ヨハネはヨハネの黙示録5章でイエスを描写しました。この描写についてチャールズ・スポルジョンは、「なぜ、私たちの高貴な主が栄光の中に傷ついた姿で現れなければならないのだろう」と自問しました。その答えは「イエスの傷がイエスの栄光なのだ」でした。

本番に備える

1年で聖書を!
◆ ヨブ記21-24
聖書のみことば ルカ12:35-40
 
あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。―ルカ12:40

今までに、たくさんの人がイエスの再臨の時を予想しようと試みてきました。去年も、アメリカのラジオ伝道者が、2011年5月21日にイエスが再臨するという予言をして、メディアを騒がせました。

準備しよう

1年で聖書を!
◆ 創世記1-2
聖書のみことば Ⅰヨハネ2:28-3:3
 
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、……自分を清くします。
―Ⅰヨハネ3:3

明けましておめでとうございます。今年はどんな年になるでしょう。もしかして、2012年はイエスが再臨される年かもしれません。そう考えながらも、自分は準備ができているだろうかと思ったりもします。

じゃあ、また

1年で聖書を!
◆ イザヤ書65-66
◆ Ⅰテモテ2
聖書のみことば Ⅰテサロニケ4:13-18
 
あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。―Ⅰテサロニケ4:13

祖父は「さようなら」とは決して言いませんでした。まるで永遠の別れのように感じるからイヤなのだそうです。それで、帰省した私たち家族を送り返すときには必ず、家の前のソテツの並木道に出てきて、手を振りながら「じゃあ、また」と言っていました。