監視カメラ
近所の警察署が、信号無視のドライバーを写すために監視カメラを取り付けました。違反者のところには後日、赤信号を横断する車の写真と一緒に違反切符が郵送されてきます。この写真は、交通違反の動かぬ証拠です。
時として、神は監視カメラと同じだと感じることがあります。神は天におられて、私たちが悪いことをする現場を押さえようと見張っておられると思ってしまいます。確かに、主は私たちの罪を見ておられますが(ヘブ4:13)、同時に、良い行いにも関心をもってくださいます。教会に献金したり、困っている人に金銭的な支援をしたりしたときも、どの程度の犠牲を払ってそうしたかを見ていてくださいます(マコ12:41-44)。誰も知らない個人的な祈りも聞いてくださいますし(マタ6:6)、思うところあって断食するときも、隠れたところにおられる天の父が見られると確信して(18節)、辛さを見せずに通常の生活を続けることができます。
主がすべてを見ておられることが分かると、世間の目が気にならなくなります。正しいことをするなら、人に誉められようが誉められまいが関係ありません。罪を犯してしまったときも、神に告白して赦していただき、被害者に対してもすべきことをきちんとするなら、周りの人に何と言われるだろうかと思い悩む必要はありません。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(Ⅱ歴16:9)というみことばをいただき、平安に過ごしましょう。
全部は出来ない
ベッドに入る前、4歳のエリアーナは母親と一緒に自分のものを片づけていましたが、「ベッドの上の洋服を片付けなさい」と言われてかんしゃくを起こしました。小さな手を腰に当てて、「全部できないわよ」と怒鳴りました。
神に召されたことをしているとき、この子のように感じたことがありますか。教会の奉仕をし、良い証を立て、子育てもして、いっぱいいっぱいです。イライラし、ため息をついて、「主よ、全部はできません」と祈ります。
けれども、神の教えを見るなら、ギリギリまで頑張ることが期待されているのではないと分かります。例えば人間関係について、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と言われました(ローマ12:18)。「自分に関する限り」という条件が付いています。神は、私たちの限界をご存じです。また、「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心からしなさい」と言われ(コロ3:23)、人にすごいと思われるような完璧さはなくても、神にささげるつもりで仕事をしなさいと語られます。さらにもうひとつ加えれば、「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」と言われ(ガラ6:4)、他人と競うのではなく、ただ負うべき自分の荷を負いなさいと教えられます。
神の知恵によって、神は各人に備えをくださいました。それによって、私たちはそれぞれ、神がして欲しいと思っておられることをするのです。これは決して全部ではありません。
大いなることを期待せよ
ウイリアム・ケアリは平凡な男性でしたが、その信仰は非凡でした。18世紀の労働者階級に生まれ、靴作りを生業(なりわい)にしていましたが、そのかたわら、神学書や未知の民族を発見した探検家の日記などを読んでいました。神は、これらの書物を用いられました。ケアリは世界に福音を伝えなければならないと思うようになったのです。彼は宣教師としてインドに赴き、福音伝道の働きを始めました。同時に、インドのいくつかの方言を習得して、聖書をそれらの言語に翻訳しました。ケアリの宣教にかける熱意は「神に大いなることを期待せよ。神のために大いなることを企てよ」という彼自身の言葉に表れています。ケアリは、自分の言葉どおりに生き、何千人という人々が彼の生き方に影響されて海外に福音を伝える宣教師になりました。
聖書は、神を信じることで驚異的な結果をもたらした多くの人々について語っています。へブル11章33節~34節は「…信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ」た人々の存在を伝えています。
歴史が下るにつれて、このような英雄の数は累積され増えていきます。その一員になる可能性は、私たちにもあります。神は何でもおできになり、誠実なお方ですから、私たちは大いなることを企て、大いなることを期待できるのです。
未使用のギア
初めて乗った自転車には、ギアはひとつだけでした。スピードが速くても遅くても、登り坂でも下りでも、同じギアだけです。次の自転車には、3つのギアがありました。平坦な道、上り坂、そして下り坂用です。3台目の自転車には10個のギアがついているので、いろいろな選択をすることができます。しかし、いくつもギアがあるからといって、全部のギアを毎回使うわけではありません。スタート時や上り坂に最適なギアがあり、加速したいときに使うギアがあり、ゆっくり走りたいときに使うギアもあります。ですから、ギアに関して言えることはこうです。すべてのギアが常に使用中なのではありません。あるギアは、今はいりません。しかし、今は不要だからといって、今後も不要だとは言えません。
私たちの霊の賜物や、奉仕に用いる技術についても同じことが言えます。以前は〇〇の賜物を用いてうまく仕えていたのに…と思うようなとき、自分はもう役に立たなくなったとか、ありがたいと思ってもらえない、などと考えてはいけません。今、使っている「ギア」を神に感謝しましょう。ひとつの賜物が今は必要とされていないからといって、それがずっと不要だとは限りません。
状況やニーズには常に変化が伴い、予測不能です。また、必要とされる霊の賜物はその折々に違ってきます。使徒パウロはテトスに「いつでも良いわざをする用意が」あるようにと勧めました(テト3:1 口語訳)。私たちも、そのようにしていましょう。
喜びながらよく仕えよ
◆ エレミヤ書33-36
親しい友人が9年前の今日、昼休みにジョギングに出かけて帰らぬ人となりました。当時、「デイリー・ブレッド」の編集長だったカート・デ・ハーンは、その晴れた木曜日に、思いもよらない心臓発作で世を去りました。彼と共に働いていたスタッフの中には、彼の思い出の品を今でもデスクに置いている人がいます。