大盤振る舞い
小さな教会の牧師だったときのことです。私たちの教会は、大きな困難に直面しました。教会堂が安全基準に満たなくなって、高額の改修工事を行わない限り、そこで礼拝できなくなると当局に通知されたのです。必死に献金を募ったおかげで改修工事の費用は工面できましたが、ある人の献金について気になった役員がいました。
その人は高齢の女性の教会員でした。この工事のために数百ドルを寄付したのですが、彼女にはそのような余裕のないことを私たちは知っていました。それで私たちは、「お気持ちには感謝しますが、ご自分の生活も大切にしてください」と言って返金しようとしました。彼女の生活は教会の状況以上に大変だと思ったのです。ところが、彼女はお金を受け取りません。それは、台所の調理用コンロを買いたいと思って何年もかけて貯めたお金でした。今はまだ鉄板の上で料理をしているのだそうです。そして、教会の家族と共に礼拝する場所は、自分にとって、台所のコンロ以上に重要だと主張しました。私たちは、彼女の大盤振る舞いな献金にびっくりしてしまいました。
イエスはやもめが宮の献金箱に二枚の銅貨(最小価値の硬貨)を投げ入れるのをご覧になり、このやもめを褒められました(ルカ21:3-4)。それは献金が高額だったからではなく、彼女が所持金すべてをささげたからです。こういう献金が、神に栄光を帰すささげ物ですが、それだけでなく、私たちがいただいた大きな贈り物、すなわちキリストを思い出させてくれるささげ物です。
感謝をささげる
よちよち歩きの女の子が猫を追って道路に飛び出し、配達のトラックにひかれました。動かない身体を抱きかかえた両親の姿を、4歳の姉は凍りついて見つめていました。この事件は、彼女の家族を冷たい虚しさの中に閉じ込めました。悲しみに打ちのめされない唯一の方法は、無感覚になることでした。すべての感情は凍りつき、逃げ場はありませんでした。
この4歳の姉は作家のアン・ボスカンプです。妹の死による悲しみは、彼女の人生感や神観に影響を及ぼしました。彼女は、恩寵という概念のない世界で育ち、「喜び」でさえ実感を伴わない概念にすぎませんでした。
ボスカンプは新米ママだった頃、聖書が「喜び」と呼ぶ捉えどころのないものを探し始めました。すると「喜び」や「恵み」という言葉は、「カイロ」というギリシャ語に由来しており、この言葉は、「感謝をささげる」を意味するギリシャ語の中心部分だと分かりました。「こんなに簡単なことなの?」と、彼女は不思議に思いました。そして、事の真偽を試してみようと、彼女は自分に与えられている千の事柄について感謝をささげることにしました。少しずつ始めると、瞬く間に「何て感謝なんだろう」という気持ちがとめどなくあふれて来ました。
イエスは、ラザロを死からよみがえらせた後ではなく、その前に感謝をささげられました(ヨハ11:41)。妹とともに失われたアンの喜びの感情も、感謝をささげることで、よみがえってきたのです。喜びは感謝をささげると、与えられます。
恵みに満ちた神をたたえる
最近あるホテルに行った時のことです。ロビーには、目を見張るほど大きな生け花が飾ってありました。完璧とも言うべき色鮮やかなアレンジからは、優雅な香りが漂っています。私は足を止めて、しばしその美しさに見とれていました。それから、「ふんだんにある、満ちあふれる」ということには、どこか私たちの心を捉えるものがあると思いました。
ジョニーの帽子はどこ?
◆ ヨエル書1-3
◆ 黙示録5
私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。
―詩篇71:14
湖畔でピクニックをしていた家族の話です。さっきまで水辺で遊んでいた5才の息子が、突然深みにはまっておぼれそうになってしまいました。家族の大人は誰も泳げません。子どもは沈んだり浮いたりしながら助けを求めて泣き叫びますが、親たちはパニック状態でおろおろと岸を行ったり来たりするだけです。