私が12才の時、父は製紙工場を定年になり、退職記念に木箱に入った聖書をもらいました。私は箱に書かれた「聖」という文字を見て、「立入禁止」と言われたように感じました。それでも私は好奇心を抑えられず、中を覗いてみると、表紙には十字架にかけられたイエスの絵とヨハネの福音書3章16節のみことばがありました。
東ドイツに50数年前に住んでいた人たちにとって、「壁」という言葉は、どこにでもある普通の壁を意味するのではなく、1961年8月13日に建設が始まった東西ドイツを分断する壁のことでした。やがてその「壁」は有刺鉄線と武装した警備員たちによって守られ、向こう側に行くことはほとんど不可能になりました。
オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ州の総督を1810年から1821年まで務めたラクラン・マッコーリーは、全員一致の新しい入植地を作るという方針を打ち出しました。
自動車メーカー各社は2010年、米国内で2千万台もの車をリコールしました。これほど多くの欠陥車が路上を走っていたこと自体驚きですが、それ以上に不安なのは、一部の人たちの無関心さです。自動車安全センターの役員が、「修理は無料です。受けてください。
病気が見つかるのが嫌で医者のところに行くのを拒む人がいます。同じような理由で教会に行くのを嫌がる人もいます。しかし、自分の病気に目をつぶっていることで健康にはなれません。自分の罪に目をつぶっているから無罪というわけでもありません。
教会学校の夏期聖書キャンプで小学校3、4年生の担当をしました。最後の日には、参加者25名の子どもたち全員にプレゼントをあげるつもりでした。しかし子どもたちには、どうすれば天国に行けるかを話してくれたらプレゼントをあげようと言いました。
パイロット、教授、牧師、バックパッカーの若者の4人が乗っている小型飛行機のエンジンが故障しました。パイロットは「パラシュートは3つだ。これは私の飛行機だから、使わせてもらうよ」と言ってパラシュートをつけて脱出しました。次に教授が「私の頭脳を世界が必要としている。だから、パラシュートをもらうよ」と言って飛び出しました。
あり得ない対決について考えてみましょう。例えば、小学1年生とアインシュタインが相対性理論について討論する、あるいは、中学生とジョージ・ワシントン・カーバーが生物工学について議論する…。このような対決は愚かなことです。一方は一流の専門家で、もう一方は、そのことについて仮に知っていたとしても、ごくわずかな知識しか無い人です。
津波警報が出るたびに、ハワイのマウイ島北岸のハナに住んでいる人たちは、山腹を駆け上がって安全な所に逃れます。近くに昔、宣教師が建てた木製の高い十字架があって、人々は我が身の安全を願って、その十字架のもとに駆け上がってくるのです。
私たちには身の保全だけでなく、霊的に安全な場所も必要です。なぜかというと、神が警告しておられるからです。