親身になって聞く
英国オックスフォードのマグダレン・カレッジの教会に、亡くなったC.S.ルイスの同僚や友人たちが集まったのは、葬儀の1週間後でした。彼らは、学者の心にも子どもたちの心にも信仰と想像力の火をともし、その炎に風を送りつづけてきたルイスの功績を称えました。
ふたつの勝利
またもや、あの人たちが攻めてきました。昔、まだ若い羊飼いだった頃、ダビデはペリシテ人の最強戦士だったゴリヤテと戦いました。石投げを使って戦い、巨人ゴリヤテを絶命させました(Ⅰサム17章)。今やダビデは、イスラエルの王です。ペリシテ人は、ダビデが王になったと聞きました。そこで彼の命をねらって、またもやイスラエルに攻め込んできたのです(Ⅱサム5:17)。
主を待ち望め
私たちは今、様々なツールで即座に連絡を取り合うことが普通になっているので、少しでも返事が遅れるといらいらしてしまいます。そんな様子は滑稽です。妻の携帯にメールを送ったのに返信が待てず、電話したりする人がいるのです。
変革を生む時間
多くのクリスチャンは、神と過ごす時間を毎日持ちたいと思っています。祈ったり、聖書を読んだりしたいと望んでいます。しかし実際には、忙しくてままならないことがしばしばです。毎日あれもこれもと詰め込まれて忙しいと、だんだんイライラしてきます。
一日中
ロンドンのウェストミンスター宮殿の大時計は、「ビッグ・ベン」の愛称で知られていますが、その素晴らしい鐘の音は、多くの人々になじみ深いものです。日本の学校では、始業と終業を告げるチャイムとしてよく使われています。このメロディーは、ヘンデルのメサイアからとられたと伝統的には考えられています。ビッグ・ベンの時計室に刻まれている詩は、時間の重要性を歌っています。
つながり続けなさい
ある朝、パソコンがインターネットに接続できなくなっていることに気づきました。プロバイダーに連絡すると原因を調べてくれ、モデムの故障だと分かりましたが、モデムを交換しに来てくれるのは、どんなに早くても明日になるということでした。インターネットが24時間も不通になると思うと、私は少しうろたえ、果たして乗り切れるだろうかと思いました。
祈ってください
私たちのバイブルスタディのグループは、あるとき帰国中の宣教師を招いて話をしてもらいました。親族や友人に別れを告げ、身の回りの物をまとめて遠い国に引越すとはどのようなものか、その人は語ってくれました。家族を伴って任地に到着すると、出迎えたのは交通ルールは皆無と思われる危険な道路と、麻薬売買が大盛況という現実でした。言葉の壁は、孤独の苦しみをもたらしました。彼女たち家族は4種類の伝染病に感染しました。長女は、危険な吹き抜けの手すりから落ちて、あやうく命を落とすところでした。私たちは、この家族のために祈っていかなければならないと思いました。
使徒パウロもまた、危険と困難に遭遇した宣教師です。彼は投獄されたり、遭難したり、鞭打たれたりしました。ですから、祈ってほしいと手紙で嘆願しているのは驚くに値しません。彼は、テサロニケのクリスチャンに「主のみことばが…早く広まり、またあがめられますように」(Ⅱテサ3:1)、「ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように」(2節)祈ってほしいと頼んでいます。また、「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」(エペ6:19)祈ってほしいと、別の手紙には書かれています。
あなたは、神の超自然的な介入が必要な宣教師がいることを知っていますか。パウロの「兄弟たちよ、私たちのために祈ってください」(Ⅱテサ3:1)という訴えを思い出しましょう。そして、力ある神の御前に、宣教師のためのとりなしの祈りをささげましょう。
祈る友人
数ヶ月間会っていなかった友人のアンジーと一緒に昼食をとりました。彼女は食事が済むと、メモ帳を取り出しました。そこには、前回会ったときに私が祈って欲しいと頼んだことが書きつらねられていて、彼女はずっと祈っていてくれたのです。アンジーはリストを読み上げながら、何か進展はなかったかと尋ねました。そして今度は、彼女の祈りのリクエストについて、私のほうが話を聞きました。祈り合う友人がいるのは、何という励ましでしょう。
使徒パウロは、自分が奉仕した教会の人々と互いのために祈り合っていました。テサロニケ教会も、そのような教会のひとつです。パウロは、テサロニケ教会の人々の信仰と愛、そして、キリストへの望みについて、いつも神に感謝していました(I テサ1:2-3)。パウロは再会を願って「昼も夜も」祈りました(3:10-11)。神が「あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれてさせてくださ」るようにと願いました(12節)。彼らの心が、神の御前で責められるところのないようにとも祈りました(13節)。テサロニケの人々は、パウロが彼らを心配して祈っていることを手紙で読み、励まされたに違いありません。自分にも神のご臨在と御力が必要だと承知していたパウロは、「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください」と頼んでいます(5:25)。
天の父と話したい、と願う心を私たちに与えてくださった神に感謝します。私たちが、誰かの祈りの友になることを学んでいきますように。
神を呼び求める
信仰を持って長くたちますが、まだ祈りを完全には理解していません。私にとって、祈りは神秘に満ちています。しかし、ひとつ分かっていることは、切羽詰ったとき、祈りは自然に心の奥底から湧き上がり、口をついて出るということです。
気が動転したとき、怖いと感じたとき、もう限界だと思ったとき、自分の小さな幸せが奪われそうになったとき、または大きなチャレンジを受けたときなど、私たちは反射的に、そして無意識に祈ります。そんなときは普通、「主よ、助けてください!」と叫び求めるのです。
神学者のユージーン・ピーターソンは「祈りの言葉は、困難な試練の中で錬られる。自分の力ではどうにもならず助けを求めるとき、自分の置かれた状況から抜け出したいと思うとき、自分が嫌で変わりたいと思うとき、私たちは飾らない素朴な言葉を使い、この言葉が祈りの基礎になる」と記しました。
祈りは困った出来事から始まり、続いていきます。なぜなら、私たちは多かれ少なかれ、常に何らかの問題を抱えているからです。祈りは特別な準備を必要とせず、正しい用語というものもありません。また、定められた作法もありません。祈りは、私たちが必要に迫られるところから始まり、やがて私たちの習慣になっていきます、私たちは、良きにつけ、悪しきにつけ、人生のあらゆることに対して祈るようになります(ピリ4:6)。
どんなことでも神に祈ることができるのは、何と素晴らしい特権でしょう。