あの人でさえ
家系図をたどっていくと、先祖には娼婦がいて、その人は国家の敵をかくまった上に役人の尋問を嘘でかわしていたということが分かった、と想像してみてください。あなたならどうでしょう。恥ずかしいご先祖さまとして秘密にしますか。それとも、一族の伝説のヒロインとしてスポットライトを当てて賞賛するでしょうか。
ラハブを見てみましょう。もし彼女がヨシュア記2章にしか登場しないなら、私たちは彼女を聖書に登場する他の裏切り者と一緒くたにして、悪者のひとりにしてしまうかもしれません。ところが、彼女の物語はここで終わっていません。マタイ1章5-6節には、彼女がダビデ王の高祖母であることが示されています。つまりラハブは、救い主イエスの家系に連なっています。さらにヘブル11章31節は、ラハブを信仰の人と語り、エリコの陥落(ヨシュア記6:17参照)によって滅びなかったのは、その信仰によるのだと記しています。ヤコブの手紙2章25節は、彼女がイスラエルのスパイを救出したのは立派な信仰の証だと語ります。
神の愛にはびっくりさせられます。神は、評判の悪い人に目を留めて、その人の人生を変えられます。変えられた人生をとおして、神の愛と赦しを明らかに示されます。自分は悪すぎるので赦されないと思っていますか。または、そのように思っている人を知っているなら、ラハブについて読んでください。そして喜んでください。神はラハブでさえ正義のかがり火に変えてくださいました。そういうことならば、私たちにも希望があるはずです。
未使用のギア
初めて乗った自転車には、ギアはひとつだけでした。スピードが速くても遅くても、登り坂でも下りでも、同じギアだけです。次の自転車には、3つのギアがありました。平坦な道、上り坂、そして下り坂用です。3台目の自転車には10個のギアがついているので、いろいろな選択をすることができます。しかし、いくつもギアがあるからといって、全部のギアを毎回使うわけではありません。スタート時や上り坂に最適なギアがあり、加速したいときに使うギアがあり、ゆっくり走りたいときに使うギアもあります。ですから、ギアに関して言えることはこうです。すべてのギアが常に使用中なのではありません。あるギアは、今はいりません。しかし、今は不要だからといって、今後も不要だとは言えません。
私たちの霊の賜物や、奉仕に用いる技術についても同じことが言えます。以前は〇〇の賜物を用いてうまく仕えていたのに…と思うようなとき、自分はもう役に立たなくなったとか、ありがたいと思ってもらえない、などと考えてはいけません。今、使っている「ギア」を神に感謝しましょう。ひとつの賜物が今は必要とされていないからといって、それがずっと不要だとは限りません。
状況やニーズには常に変化が伴い、予測不能です。また、必要とされる霊の賜物はその折々に違ってきます。使徒パウロはテトスに「いつでも良いわざをする用意が」あるようにと勧めました(テト3:1 口語訳)。私たちも、そのようにしていましょう。