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私のもとに来なさい

シャルロット・エリオットは1834年に「ほふられたまいし」(聖歌271)を書きました。彼女は、病気で長年寝たきりだったので、女子の学校の運営資金集めを助けたいと思っても、どうすることもできませんでした。彼女は無力さを嘆き、その葛藤は彼女の信仰を揺るがすほどでした。彼女は「ほふられたまいし」を書いて、自分の疑いに応答しました。彼女の苦悩は、次の歌詞に最もよく表されています。

希望をもたらす贈り物

巨大台風が、2013年にフィリピンのタクロバンを襲い、推定で1万人が亡くなりました。そして生存者の多くは、家や仕事を失いました。物資も乏しく、3か月が経っても復旧はままならない状況でした。そのような時、またも暴風雨がやってきましたが、その中で赤ちゃんが生まれました。悪天候は台風の辛い記憶を呼び起こしましたが、近所の人たちは協力し合って助産師を探し、母親と赤ん坊を診療所に連れていきました。その赤ちゃんは回復してすくすく育ち、住民の苦難の中で希望のシンボルとなりました。

健康な性質

前向きな姿勢を育てると健康に良いと、昨今よく言われます。それは、医者から厳しい宣告をされたときであろうと、山積みの洗濯物を前にしたときであろうと同じです。北カリフォルニア大学のバーバラ・フレデリクソン教授(心理学)は、喜びや感謝、敬愛など、前向きな感情を創出する行いをしなさいと推奨します。しかし、「優しい気持ちを持てれば良いなあ」と漠然と願うだけではうまくいきません。それはみんな分かっています。喜びや平安、そして愛の源となる、しっかりとしたよりどころがなければダメなのです。

遅すぎる?

長年の癖が染みついて変わることが難しいという意味のことわざは、色々な言語にあります。英語では「老犬に新しい芸を教えることはできない」、フランス語では「老いた猿に面白い顔をさせることはできない」、スペイン語では「年取ったオウムは話せない」などです。

悲嘆と希望

アメリカのカントリー歌手、ジョージ・ジョーンズが81歳で亡くなったとき、ファンは彼の素晴らしい歌声や波乱に満ちた人生に思いを馳せました。その曲の大半には、ジョーンズ自身の切なさやあこがれが映し出されていましたが、それ以上に人を感動させたのは、彼の歌い方でした。シカゴ・トリビューン紙の音楽批評家グレッグ・コットは、「ジョーンズの歌声は、心の痛みを伝えるために造られた」と語りました。

つづける希望

太陽エネルギーを燃料とする飛行機のソーラーインパルス号は、燃料無しで昼も夜も飛ぶことができます。発明者のベルトラン・ピカールとアンドレ・ボルシュベルクは、2015年には世界一周をしたいと願っています。この飛行機は日中、太陽エネルギーで飛びます。同時に、夜間飛ぶためのエネルギーも蓄えます。ピカールは言います。「朝日は、この旅をつづけていける、という新しい希望をもたらしてくれます。」

希望はあるか?

私は父の墓のそばに静かに座って、母の納骨式が始まるのを待っていました。司式者が母の骨壺を運んで来ました。私は放心状態で、感じることも考えることもできません。たった3ヶ月の内に父母を相次いで失い、どうすればよいのか分かりませんでした。深い悲しみの中で喪失感と孤独感が募り、ふたりのいない今後に不安を感じていました。

荒れ地が美しい庭に

春は、物事が常に目に見えているとおりとは限らないことを悟らせてくれます。すっかり枯れ果てて絶望的にさえ見えたところに、生命が芽吹きます。寒々とした裸の森が、緑豊かな景色に生まれ変わります。

冬の間、着物を求めているかのように裸の腕をのばしていた木の枝たちが、突然、緑のドレスをまといます。しぼんで地面に落ちてしまった草花も、「死んでないぞ」と言わんばかりに、土の中からむっくりと起き出してきます。

聖書にも絶望的な状況が描かれています。そのひとつは、ヨブという裕福な人の話です。ヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている」人でした(ヨブ2:3)。その彼を災いが襲い、すべてを奪っていきました。ヨブは苦難の中で「私の日々は…望みなく過ぎ去る」と言いました(7:6)。ヨブも彼の友人も、この災いは神がヨブに罰を当てたのだと考えましたが、それは全くの間違いでした。神は、ヨブの正しさはサタンに攻撃されても揺るがないと信じておられました。後日、神はヨブの生活も希望も回復させられました。

毎年、必ず春がやってくることは、絶望的な状況にいる人にとって慰めです。神がともにいてくだされば、絶望というものはありません。どれほど悪い状況に見えたとしても、神はそれを用いて、美しく栄光に満ちたものを作ってくださいます。

デビッド、よくやった

デビッド・シュムは、脳性麻痺に侵されながらも楽天的で、忍耐強く、信仰深い人でした。私たちは彼の葬儀で、彼の人となりを心からたたえました。彼の74年の生涯は、日常生活の簡単な作業さえも労苦する大変なものでした。にもかかわらず、笑顔を絶やさず、病院で2万3千時間以上もボランティア活動をしたり、家庭環境に問題のあるティーンエイジャーを支える働きに携わったりしました。

デビッドは生前、自分の葬儀の聖書朗読は、イザヤ書35章3節~10節にしてほしいと言っていました。「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。…そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ』」(3-4、6節)。このみことばは、捕囚の身となったイスラエル人に向けて語られた神の約束です。私たちクリスチャンにとっては、キリストが再臨されるという希望を再確認させてくれるみことばでもあります。

デビッドは生涯最後の数週間、見舞いに来る人たちに、ベッド脇にあるイエスの大きな絵を指して、「主イエスはもうすぐ、ぼくを迎えに来てくれるよ」と話していました。これは、神の子どもたちすべてに賜った希望です。だから私たちは、イエスに感謝し、イエスを賛美するのです。