希望は誰のもの
近頃は、何を見ても驚かされまいと努めていますが、ショッピングモールで横を通り過ぎた女性のTシャツに書かれていた文句にはドキッとしました。太い活字で、「希望はおバカさんのもの」と書かれていたのです。確かに、うぶで乗せられやすいことは、愚かで危険です。根拠のない楽天主義が失望や傷心という悲しい結果を招くこともあるでしょう。だからと言って、希望を持たないようにするのは、あまりに悲観的でひねくれた人生観です。
聖書の希望は独特です。それは確かな信頼です。この世界の中で何かをしようと神が働いておられる、そして、「私」の人生の中でも神が働いておられると信じることです。これこそが、みんなが必要としているものです。ヘブル人への手紙の著者は、「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか」(ヘブ10:23)と記して、はっきりと希望の大切さを述べています。
聖書に根ざした希望を持つことは、愚かなことではありません。それにはちゃんとした根拠があるからです。私たちの神は真実なお方ですから、キリストを信じて手にした希望を、しっかりと握っていましょう。現在でも未来でも、私たちがどんなことに直面したとしても、神は信頼できるお方です。私たちの希望の土台は、永遠の愛をもって愛してくださる神の信頼できる品性です。あのTシャツの言葉は間違っています。「希望はおバカさんのもの」ではありません。希望は、あなたと私のものです。
幸せバイキング
ファミリーレストランのテレビ広告で「当店で幸せバイキングを!」と宣伝しているのを見ました。フライドポテトやパスタやグラタン、サラダやケーキをファミリーレストランで食べるだけで幸せになれるなら、何と手軽なことでしょう。しかし残念ながら、そのように約束できるレストランはひとつもありません。
幸せをつかむことはなかなかできないと、人生が教えてくれます。もちろん、食べ物や他の物が手に入ることも幸せには違いありませんが、いずれはそれが当たり前になって、次の「幸せ探し」が始まります。それはおそらく、手に入れたものが、心の奥底から必要なものではなかったからでしょう。幸せになろうと、ちょっとした気晴らしや娯楽を求めて、それが手に入ったところで「助けて欲しい」とか「希望がほしい」という心の叫びには応えてくれません。それゆえ、詩篇の作者は「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は」と語り、幸せになる最良の方法を示してくれます(詩146:5)。
主のうちに幸せを求めるなら、あなたは大丈夫です。主と主の計らいに自らを委ねた時にだけ、私たちは探し求めていた幸せを見つけるからです。助けや希望は、主を信頼して初めて手にすることができます。
希望が必要
アダムとエバに希望は必要ありませんでした。満たされていないものは何もなかったからです。また、神がすべての良いものを与えてくださっている環境の中で、その快適な生活がずっと続くと考えるのも、至極当然でした。しかし、神はあるものを独り占めしていると蛇に吹き込まれ、それを欲しがったために、すべてのものを失う危機が訪れました。
母鳥の泥まみれの望み
◆ Ⅱ列王記11-14
玄関先のポーチに屋根をかけたとき、いつか鳥がそこに巣を作るだろうと予想していました。そこで夫は、隅の柱の上部に傾斜をつけました。しばらくすると、コマドリが新しい家を作ろうと悪戦苦闘しています。それを目撃して、わが意を得たりと微笑みました。
アドベントのテーマ
◆ エゼキエル書40-41
◆ Ⅱペテロ3
聖書の書巻はすべてつながっており、関係性を持っています。私は以前からそのことを信じていましたが、それでも、先月読んだペテロの手紙第一が、アドベントの4つのテーマすべてに触れていることに気づいたときは、今さらながら驚きました。アドベントは、キリストの再臨を意識しつつ、キリストの降誕を祝う準備をする期間です。神がキリストと共にくださった希望、平和、喜び、愛を強調する時です。
神をのぞいて希望なし
◆ ヨブ記14-16
◆ 使徒9:22-43
スコットランドの将校、アーネスト・ゴードンは、第二次世界大戦中にタイ・ビルマ国境にあるクワイ河収容所にいたときの体験を著書に書いています。彼はマラリア、ジフテリア、チフス、脚気、赤痢、熱帯性潰瘍などに次々と侵されました。また、厳しい労働と食料不足のために、身長が2メートル近くある堂々とした体型でしたが、あっという間に体重が45キロ以下になってしまいました。