苦悩を通して強められる
教会の礼拝を締めくくる祝祷に、ペテロの手紙第一5章10節、「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」が用いられることがあります。その際、「あなたがたをしばらくの苦しみのあとで」という部分が省かれることがありますが、なぜでしょう。苦しみ云々と言うのが、心地よいものではないからかもしれません。
しかし、苦しむことが起こったとしても、驚くには値しません。使徒パウロは苦しみを十分に知っていた人ですが、彼は「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と語ります(Ⅱテモテ3:12)。
私たちが神に従順に暗い(Ⅰペテ5:6)、サタンに立ち向かっている(9節)なら、中傷されたり、誤解されたり、相手に都合の良いように利用されたりするかもしれません。しかし、苦しみには目的がある、とペテロは言います。その目的は「(あなたがたを)完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者と」することです(10節)。
クリスチャンを成長させるために、神は試練の道を与えられます。私たちは、それによって強くなり、未来の嵐にも耐えることができます。神に栄光を帰する勇敢な人生を歩みたいと願う人たちを神が支えてくださって、その志を全うさせてくださいますように。
生ける証
ウォッチマン・ニーは1952年、キリストを信仰しているという理由で捕えられ、死ぬまで獄中にいました。1972年3月30日に亡くなったとき、姪がほんのわずかの持ち物を取りに行くと、看守がベッドの横で見つけたという紙の切れ端をくれました。そこには彼の生涯の信仰告白が書かれていました。
「キリストは罪人の贖いのために死に、三日後によみがえられた神の御子である。これは宇宙で最も偉大な真理だ。私はキリスト信仰のゆえに死ぬ。―ウォッチマン・ニー」
使徒パウロもキリスト信仰のために殉教したと伝えられています。死ぬ少し前に書いた手紙の中で次のように述べ、読者を励ましています。「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。私は、福音のために、苦しみを受け…ています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。」(Ⅱテモ2:8-9)
歴史上、何百万、何千万というクリスチャンが殉教しました。私たちは、殉教者になるように召されてはいないかも知れませんが、イエスが自分のために何をしてくださったのかを実証するようには召されています。私たちは、神の恵みあふれる贈り物に感謝して、相手の反応はどうであれ、イエスが自分にしてくださったことを伝えていきましょう。
死に至るまで忠実
イギリスのリバプールにあるウォーカー・アート・ギャラリーには、古代都市ポンペイの忠実な護衛兵の絵があります。この絵は、考古学者が発掘したポンペイの遺跡から見つかった、火山灰に埋もれた完全武装のローマ兵を題材にして描かれました。紀元79年のベスビオ火山の噴火によって、ポンペイの人々と町は、一夜にして灰に埋ずもれました。
私は主にあって私
◆ 哀歌1-2
◆ ヘブル10:1-18
―Ⅰペテロ3:14
地元の病院で診察を待っていたとき、十字架のキリスト像が壁にかかっていることに気づきました。しばらくして看護師が問診にやって来ましたが、質問の中には「病院のチャプレンに相談したい霊的な問題がありますか」という問いもありました。私は、「尋ねてくださってありがとう」と答えました。これは今の世の中では珍しい質問です。彼女は微笑みながら、自分たちの病院は信仰を基盤にしており「霊性のケアは使命のひとつです」と語りました。この人たちは社会がますます多元的で世俗的になる中、恐れることなく自らの信仰を公言しています。私は、そのことに感銘を受けました。
神は神である
◆ Ⅱ歴代誌28-29
◆ ヨハネ17
スミルナの教会の司教ポリカルポス(紀元69年~155年)は、釈放されたいならキリストを冒涜せよ、とローマ帝国の役人に言われて、こう答えました。「私は86年間、神に仕えてきましたが、神は全く悪いようにされませんでした。お救いくださった我が王を冒涜することが、どうしてできましょうか。」役人は「考えを変えなければ、火あぶりだぞ」と言って脅迫しましたが、ポリカルポスはひるみませんでした。ポリカルポスは、キリストを冒涜しなかったので、火刑に処せられました。
スタンディングオベーション
◆ レビ記8-10
◆ マタイ25:31-46
見なさい。……人の子が神の右に立っておられるのが見えます。
―使徒7:56
スーザン・ボイルは成人した後の人生の大半を、年老いていく母親の世話をしながら愛猫ぺブルズと暮らし、教会で歌っていました。どう見てもミュージカルのスーパースターにはほど遠い、地味な感じの人でした。タレント・ショーに出演したとき、聴衆がせせら笑いを浮かべたのは、そのせいでしょう。けれども彼女は、冷たい人たちにひるむことなく見事に歌いました。ついに聴衆は、総立ちで拍手喝采を送りました。