日本でも「イースター」が話題になってきました。デパートに行くとカラフルな卵、可愛いウサギのお菓子やグッズが売られています。

イースターのシンボルが卵なのは、卵が生命を象徴するからだと言われています。また「ウサギ」は多産であり、北ヨーロッパの土着宗教の豊穣の女神と関係する動物でもあるとのことで、生命の象徴として用いられるそうです。

生命を祝う伝統は多くの文化、もちろん日本文化の中にも息づいています。その上「カワイイ!」は今や日本ブランドのひとつですから、カラフルなイースターエッグやイースターバニーは、きっと多くの日本人に受け入れられることでしょう。

けれども、卵やウサギに象徴される生命はいずれ終わります。この世の生命体はすべて、遅かれ早かれ死んで朽ちていきます。なぜでしょう。聖書によると、「死」は、人類の祖アダムとエバが創造主である神との約束を破って「善悪の知識の木」の実を食べたことに由来します。神の愛を裏切り約束を破ったことによって、信頼が壊され「死」が始まりました。

ところが、イースターで祝われているのは、死では終わらない「いのち」です。なぜでしょう。「死」は、人の裏切りが原因ですから、死に打ち勝つためには、あがないが必要です。あがないによって和解の絆が結ばれるなら、神と人を隔てる「死」を乗り越えることができます。聖書は、神の御子キリストこそが、そのあがない主だと語ります。

私たちは悪人ではないかもしれませんが、約束を破ったり、人を傷つけたり、すべき善を行わなかった苦い経験を持っています。それは、神と人との関係が壊れたとき、完全な人間関係も壊れてしまったからです。そんな私たちが、神と親しい関係を取り戻すために、神は、ご自分のひとり子、イエス・キリストを地上に送り、罪のあがないとして十字架につけて、その死後、復活させられました。

イエス・キリストは、死に打ち勝って復活され、ご自分を信頼するすべての人に、死で終わらない「いのち」を与えてくださいます。また、死で終わらない「いのち」は、今を生きる命に新しい活力を与えてくれます。

私たちはイースターでキリストの復活を祝いますが、それは、キリストの復活が、私たちに死で終わらない「いのち」を提供しているからです。天地万物の創造主である神が、死で終わらない「いのち」を提供しておられることを感謝して祝う、それがイースターです。

十字架上でイエスが語られた7つの言葉が福音書に記されています。そのうち3つは人との関わりについて、そして4つは父なる神の救いのご計画が十字架上で成就したことを語っています。ぜひ神の愛を思いながら、ご覧ください。


また、この7日間のデボーションを用いて、イエスの愛と犠牲、それに続く勝利を味わい、主を賛美しましょう。

誰がイエスを十字架に

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。—ルカ23:33

レンブラントの「3本の十字架」を見ると、イエスがかけられた十字架がはじめに目に飛び込んできます。そして、十字架のもとに集まっている群集に目を移すと、神の御子を十字架につけるという恐ろしい過ちに関わっている人々のさまざまな表情や態度に引きつけられます。最後に絵の隅に視線が移ると、影に隠れているようなひとりの人に気づきます。これは、自分の罪がイエスを十字架につけたと悟ったレンブラント自身の姿ではないかという美術評論家もいます。

ある人が次のように言いました。「キリストが世の罪のために死んだと言うのは簡単なことだ。しかし、私の罪のために、と言うのは違う。自分も、ピラトのように無関心で、カヤパのように策略的になれる。兵士たちのように冷淡で、群集のように無慈悲になれる。また、弟子たちのように臆病になる。そう思うとショックだ。彼らが何をしたかではない。私がイエスを木に釘づけにしたのだ。私が、神のキリストを十字架につけ、嘲笑の輪に加わったのだ。」

あなた自身をレンブラントに重ねてみましょう。あなたもそこにいたのです。しかし、十字架につけられたイエスのみことば、「父よ。彼らをお許しください」(ルカ23:34)を思い出しましょう。「彼ら」には、あなたも私も含まれています。感謝しましょう。Our Daily Bread

キリストの十字架は、神の愛と世の罪を最も明らかにしている。

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これ以上の愛はない

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。—ヨハネ15:13

ビルは妻といっしょにロッキー山脈にドライブに出かけ、トラックと接触しそうになりました。とっさにハンドルを切ったところ、車は道路下のコロラド川に転落しました。ふたりは沈んでいく車からはい出して、懸命に急流をかき分け、岸辺を目指しました。事故に気づいたトラックの運転手は川岸に降りて、彼らに向かってロープを投げました。ビルは妻の後ろから泳ぎ、ロープをつかめるように押したので、運転手は彼女を岸に引き上げることができました。しかし、ビルはそのまま下流に流され、亡くなってしまいました。愛する女性のために命をささげたのです。

相手が生き残るために自分のいのちを差し出すことは、この上ない愛の証です。イエスは、裏切られた夜、人類のためにご自分のいのちを差し出すつもりだと弟子たちに語られました。イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言われ(ヨハ15:13)、十字架につくことによって、究極の自己犠牲の模範を示されました。

イエスは、あなたのためにそうなさったのです。あなたの代わりに死なれたのです。そのことを考えたことがありますか。イエスはこうして、あなたへの愛を証明されました。それだけではありません。あなたが、罪を赦されて永遠に天国で住むことを、可能にしてくださったのです。Dennis Fisher

キリストの犠牲は我々の罪の代価であり、神が望んでおられたことだ。

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子羊のように

ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。—イザヤ書53:7

イタリアの芸術家カラヴァッジオは1602 年に、「キリストの逮捕」という絵を描きました。初期バロック様式のこの作品には、人をひきつける力があります。この絵画の暗い色合いによって、それを見る人々は、イエスがゲッセマネの園で捕えられた場面に遭遇することができます。この絵を見ると、ふたつの点に引きつけられます。まず、口づけをする裏切り者のユダです。そして、イエスの手です。

イエスの両手は軽く組まれていて、この不正な逮捕に対して、まったく抵抗する意図のないことを示しています。キリストは全宇宙を創造する力をお持ちでしたが、自ら進んでご自分をささげ、捕えられて十字架にかかられたのです。

このようなことが起こるずっと前、イエスは「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」と語られています(ヨハ10:18 共同訳)。預言者イザヤは、イエスがいのちをささげられることを預言し「ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザ53:7)と記しました。

犠牲の羊になられたキリストの姿は、このお方の力強い愛を如実に表しています。イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハ15:13)と説明されました。イエスはこれほどまでに、あなたを愛しておられます。 Bill Crowder

釘を打たれたイエスの手は、愛に満ちた神のみこころを表している。

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正直な疑い

そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。—マタイ28:17

自分の経験から、死んだ人は戻ってこないと分かっています。愛する人を亡くした悲しみの中心にあるものは、この世で二度と会えないという辛い現実です。私たちは葬式に参列して、亡くなった人を偲び、遺族と悲しみを共にします。帰り際に死んだ人が出口で見送ってくれるとは思いません。

それを思うと、イエスの弟子たちが、初めは疑ったのも無理はありません。イエスは死からよみがえられました。天使や空っぽの墓、そしてイエスご自身を見た(マタ28:1-10)という女たちの証言に続いて、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登りました。聖書は、「そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った」(16-17節)と記しています。

主の一番近くですばらしい教えを聞いたり、力強い奇跡を目の当たりにしたりした彼らでさえ、何人かはイエスのよみがえりを疑いました。しかし、その正直な疑いは、よみがえられた主、という現実をしっかりと受け止められたとき、すぐさま喜びと希望に変わりました。

私たちは、主に対して疑いを持っていないでしょうか。自分の経験から、過去の過ちや現在の葛藤、また将来の展望などは、変わらないと思い込んでいませんか。新しい気持ちでイースターを迎え、主に不可能なことはないと信じませんか。David McCasland

カルバリの丘に目を向けるなら疑いは消える。

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期待を胸に

そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓についた。—ヨハネ20:3-4

エスが十字架の上で息を引き取られた陰惨な一日が終わり、この世の希望は絶たれたように思われました。群衆やイエスの弟子たちは、このお方の教えが知恵に富み、また素晴らしい奇跡も起きるので驚いていました。しかし、それもたった数年のことでした。イエスはご自分を十字架から救おうとはされず、その生涯は終わりを告げたのです。イエスにはもう何も期待できないと、誰もが思いました。

しかし、復活の朝、希望がよみがえりました。ユージーン・バーナンドの絵に描かれているのは、ペテロとヨハネが墓に駈けつけている様子です。マグダラのマリヤは、夜が明けるや否や友人とともに墓に来ると、その中が空なのを発見し、彼らに告げました。この絵には、墓に向かって走っているペテロとヨハネの複雑な心境が描かれています。彼らの表情には、苦悩と安堵、悲しみと驚き、そして、絶望と驚嘆が混在しています。彼らの視線はしっかりと前方を見据え、その絵を鑑賞する者たちの意識を墓に釘付けにします。彼らは何を見つけたのでしょう。空になった墓です。そうです。救い主は生きかえったのです。

キリストは、今も生きておられます。けれども、私たちの多くは、このお方がまだ墓におられるかのように暮らしています。空になった墓の向こうを見てください。そこにおられる救い主は、復活の力で、私たちの人生を満たしてくださいます。Dave Egner

受難の犠牲者は、復活の勝利者だ。

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新しい普通

キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。—ローマ6:4

癌を宣告されたとき、医者の言葉を聴こうとしましたが耳に入りませんでした。家に帰ると、頭まで毛布をかぶって眠りました。悪い夢ならさめてほしいと願いながらです。

何とか気を取り直してそのことを親しい人に告げたとき、友人のジュディーは同情してくれましたが、次のようにも言いました。「これから、こういうことが起こるのよ。まず3 日間は、すごく落ち込むわ。その後、しゃきっとして、すべきことは何かを考えるようになるの。それから、淡々とそれをこなして毎日を生きていくのよ。」さらに続けて、こうも言いました。「これは、死、葬り、復活と関係していると思うわ。」

私は当時、彼女の言葉を信じませんでした。私が思うところの人生は、もう終わったと確信していました。何もかもが変わってしまって、普通の自分でいられるなどとは想像さえできません。けれども、彼女が正しかったのです。3 日目の朝に目を覚ました時、それほど気分が悪くないことに気づきました。それから、化学療法のために身体はつらくても、感情面と霊的な面においては少しずつ改善し、かなり良い線をいくようになりました。私は古いリアリティーに「死」に、新たな「普通」のなかに「復活」したのです。

感謝すべきことに、神は復活の神です。キリストを信じて死んだ人々にとって、死という現実は、栄光に満ちた新しい「普通」の中に復活することを意味します。ですから、私たちは「いのちにあって新しい歩みをする」(ロマ6:4)ことができるのです。 Julie Ackerman Link

「キリストにあって」生きることは、イエスの人生、死、そして復活を分かち合うことだ。

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復活といのち

わたしは、よみがえりです。いのちです。—ヨハネ11:25

イエスは「わたしは、よみがえりです。いのちです」と言われました(ヨハ11:25)。大胆な発言をしても、それを裏づけする行動がなければ何にもなりません。イエスは、実際に死からよみがえられて、ご自分の発言が真理であることを証明されました。

ジョージ・マクドナルドは「もし、神の子が死んでよみがえったと信じるなら、あなたの将来は、人生という丘の向こうから永遠に沈まない太陽が昇る夜明けのようだ。そのような希望は、最高の想像力に恵まれた詩人の心にさえ思い浮かばない」と書いています。

神の御子は、死んでよみがえられました。イエスの復活は、神が私たちをも死からよみがえらせてくださることの保証です。私たちは、考えたり、感じたり、記憶したり、理解したりする存在として永遠に生きるのです。

永遠に生きるとは、神が与えてくださった、永遠を思う心で今を生きるということです。また、死に別れた信仰の友と再会することであり、悲しみのない世界に住むことであり、すべてを捨てて私たちと永遠にひとつになってくださったイエスにお会いすることです。

もうひとつ言えることがあります。それは、今の人生だけでなく、次の人生もあるのですから、今が完全である必要はありません。しばらくは、完全に健康とは言えなくても大丈夫ですし、困難、孤独、貧困、心痛にも耐えていけます。なぜなら、よみがえりのいのちがあるからです。それは、天の御国で永遠に生きるいのちです。 David Roper

復活が私たちの信仰の基だ。

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