遅い到着も 大歓迎
ある晩、老人ホームを訪れると、トムという名の入所者が部屋からそっと出て来て、私のところに来ました。しばらく雑談をしてから、彼は尋ねました。「これほど年をとってからクリスチャンになるなんて、神に失礼ではありませんか。」このような質問は、驚くに値しません。私はチャプレンですが、年配の人、依存症の患者、また前科のある人たちから、表現は違っても、よく同じような質問をされます。彼らは、自分たちはもう手遅れで、神を信じたり、神に用いられたりということが、できるはずはないと思っています。
単純にしよう
アメリカ合衆国第4代大統領ジェームズ・マディソンは、この国の憲法の起草に尽力しました。彼は、「読めないほど膨大であったり、ごちゃごちゃしていて理解しづらい」法律を作ってはいけないと警告しました。私は役所に提出する記入用紙を読みながら、お役人たちはマディソン大統領の言葉にもう少しきちんと耳を傾けてほしいと思いました。
福音を人に伝えるとき、ことを必要以上に複雑化してしまうことがあります。うれしいことに聖書は、救いの良き知らせを明瞭で平易なことばで伝えています。イエスは、学識あるパリサイ人のニコデモに、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と語られました(ヨハ3:16)。また後に、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とも言われました(14:6)。使徒パウロは、どうしたら救われるのか、と尋ねたピリピの牢獄の看守に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と端的に語りました(使16:31)。
神の麗しいラブストーリーは単純です。神は、私たちを罪と死から救い出すために、ご自分のひとり子を遣わされました。子どもでさえ理解できる、素晴らしい話です。
最高の人生
数ヶ月前、フロリダに出張した帰りの飛行機の座席は、思いがけず足元のスペースが広い席でした。その上、隣は空席だったのでラッキーです。これならば、狭い場所に縮こまらなくてよいどころか、ゆっくり昼寝ができるかもしれません。
しかしふと、あまり快適でない席にいる同僚たちのことを思いました。何人かに隣の席に来るように誘いましたが、驚いたことにあれこれ理由をつけて誰も移動しません。移動するのはめんどうだし、今の席で十分だと言うのです。
クリスチャンは、もっと大切なことに人を招待しなくてはなりません。招待を受け入れる人も、そうでない人もいるでしょうが、自分はキリストを信じる新しい人生を受け取り、他の人にも同じ経験をして欲しいと願っているのなら、そうすべきです。ヨハネの福音書1章40節を読むと、アンデレは、イエスについて行ったことが分かります。そして最初にしたことは、兄弟のシモンを見つけて、メシヤであるイエスに会わせる、ということでした(41節)。イエスはこの兄弟たちに、キリストを知り、キリストの約束を体験する新しい生き方を示されました。その約束とは次のことです。イエス・キリストの贖い(ロマ3:24)、イエスは決して離れずあなたのそばにいる(ヘブ13:5)、イエスは希望にあふれさせてくれる(ロマ15:13)、イエスは平安を与えてくれる(ヨハ14:27)、そして、イエスはいつまでもともにいてくださる(Ⅰテサ4:17)。
あなたもイエスを信じる輪に加わりませんか。イエスは最高の人生をくださいます。
契約信仰
◆ 創世記31-32
◆ マタイ9:18-38
神を愛する人々、……のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる―ローマ8:28
神に仕えている人は、暗黙の内に「契約信仰」に生きていることがあります。つまり、神に時間と労力をささげているので、見返りとして、特別な祝福を得る資格があると思うのです。
ところが、友人のダグラスは違いました。彼の人生は、色々な意味でヨブのようでした。牧会に失敗し、妻をがんで亡くし、飲酒運転の事故の巻き添えになって自分も息子も怪我をしました。しかし、彼は言います。「神と人生をごっちゃにしてはいけない。」