神に栄光あれ
主日礼拝をささげようと訪れた教会で、ジェイソンは突然、特別賛美をするように頼まれました。礼拝開始直前に頼まれたのですが、彼は快く引き受け、誰もがよく知る「おおみ神をほめまつれ」を賛美することにしました。これは彼にとって、特別な意味を持つ歌でした。ジェイソンは、教会の地下室で何度か練習し、礼拝ではアカペラで歌いました。
神の栄光を表して
私は子どもの頃から野球が大好きです。中でもデトロイト・タイガースの大ファンで、チームの活躍を楽しんでいます。成績が奮わず、シーズンの折り返し地点で負け越しているというようなときは、随分イライラさせられます。あるとき、これでは精神衛生上良くないと思って、タイガース断ちをしました。4日間、お気に入りチームに全くかかわらないように生活してみたのです。
私はタイガース断ちをしている4日間、慣れ親しんだものを放棄するのがいかに難しいか、しみじみと考えさせられました。しかし、神がそのように求めておられる場合もあります。
例えば、どこかで制限しなければならないと分かっていながら、ついついのめり込んで振り回されているような趣味があるかもしれません(Ⅰコリ6:12参照)。または、神に喜ばれるとは言えないような習慣やクセがあって、神を愛し、神の栄光を表わす生き方をするためには、きっぱりやめるべきだと分かっているのに、それができていないという場合があるかもしれません(Ⅰコリ15:34)。
自分の生活の中に、神との親しい関係を築くことを妨げるものがあると気づいたなら、それをやめましょう。主の助けにすがれば、そうすることができます。神は私たちに脱出の道を備えておられます(Ⅰコリ10:13)。また、御霊に属することをひたすら考えるように(ロマ8:5)、聖霊が力をくださいます。
神が助けてくださるように祈りましょう。主の栄光が照り輝くことを、私たちの中の何かが妨げてしまうことのないようにしましょう。
イヌワシ
息子のマークと一緒にワイオミング州のクライド・ピーターソン牧場を出て、ミシガン州の自宅に戻る途中のことです。はるか向こうの険しい渓谷の淵に立つ木に、一羽の大きな鳥が止まっていました。近づいていくと、その鳥はイヌワシでした。そのイヌワシは、木から飛び立つと渓谷の上を滑空しました。拡げた大きな羽が、朝日に映えて金色に輝き揺らめいていました。息を呑むような壮麗さでした。私たちはその勇壮な姿を目の当たりにし、神の偉大な創造の力に畏怖の念をいだくと同時に、このような体験をさせていただけたのは何という光栄だろうと思いました。
神の被造物は、神の奇しいみわざを見させてくれます(詩145:5)。静まってこのみわざを思うなら、私たちは被造物に映し出される神の品性に感動するでしょう。神を畏れる気持ちがわき起こるに違いありません。
イヌワシの姿は、全能の神の素晴らしい創造の物語を教えてくれました。軽やかに飛びながらさえずる小鳥たちや、戯れて跳ね回る鹿の親子、寄せては返す波、繊細で可愛い千日紅や矢車菊なども神の被造物です。全く思いがけないときや、人里離れた場所でも、神はご自分の栄光を輝かせて、私たちにご自分を現してくださいます。このように、創造の神秘にはからずも巡り合ったなら、それは「神の奇しいわざに思いを巡らす」(5節)絶好のチャンスです。
ちりの芸術
神は、ご自分の芸術作品であるアダムを造る材料としてちりを選ばれましたが(創2:7)、この材料は、足りなくなる心配がありません。「小さな塵の大きな不思議」(原書名 The Secret Life of Dust)の著者ハナ・ホームズによると、砂漠から風で巻き上げられる砂塵は1年間で10億トンから30億トンだといいます。10億トンは満杯の貨車1400万両分。1400万両の貨車を並べると、赤道を六周する長さになるそうです。
このちりをお金を出して買う人などありません。どこにでも捨てるほどあります。私は、我が家のちりは我慢できる間は見えないことにしています。そっとしておけば目立たない、というのが私の理屈なのですが、それでもちりは少しずつ積もっていき、いずれは掃除して綺麗にしなければなりません。
ちりを取り除けば、綺麗になった表面に自分の姿が映って見えます。同時に別のことも見えてきます。それは、こんな価値のないちりを使って、とても貴重なもの、すなわち、あなたや私という一人ひとりの人を、神が造り出してくださった(創2:7)ということです。
神がちりを用いて人類を創造されたことを考えると、何か(または誰か)を価値が無い、と簡単に決めつけてはならないと思います。悩みの種だから取り除いてしまいたいような人や問題こそ、実は、神がご自分の栄光を現すために素材として選ばれたのかもしれません。
天は宣する
夜の空を少し眺めるだけで、神の御手の業はすごいのだと十分に分かります。私たちは、神の御業に感嘆し、畏敬の念を抱きます。私たちは、広大に広がる銀河や天の川の銀の帯を見るにつけ、神がこれを創造し、治めておられること、そして、万物が御子イエスによって成り立っていること(コロ1:16-17)を思わずにはいられません。それはまるで、神の創造を見せる劇場の最前列で、その迫力を感じるような体験です。
空の雲を考えてみよう
◆ エゼキエル書12-14
ずいぶん昔のことですが、息子たちと一緒に庭に寝そべって、雲の流れるのを見つめていたことがありました。「お父さん、どうして雲は浮いているの」と、ひとりが尋ねました。私は、「それはね…」と教養のあるところを見せようと思ったのですが、口ごもってしまいました。そして、「分からないなあ」と知らないことを認め、「でも、調べてあげるよ」と付け加えました。
調べて分かったことは、こうです。凝結した水蒸気が地球の引力で下降すると、地上から昇る温かい空気にぶつかります。そして、再び霧状の水蒸気となり、上昇するのです。これが、この自然現象の説明です。
しかし、自然現象の説明は、究極の答えではありません。雲が浮くのは、神が、その英知によって自然を司る法則をつくり、「完全な知識を持つ方の不思議なみわざ」(ヨブ37:16)を示されたからです。ですから、雲はひとつの象徴、すなわち、神が恵みとまことをもって天地を創造されたということを表すしるしなのです。
いつか、「あの雲は何に見えるだろう」などと思いながら、のんびり雲を見ることがあったら、思い出してください。万物を美しく造られたお方が、上空に雲を浮かばせておられることを。また、その理由は、私たちに驚き敬う心を呼び起こさせるためであることを。大空は、積雲や層雲、巻雲さえも、神の栄光を宣言しています。
被造物は、創造主を指し示すしるしに満ちている。
ライオンでもある小羊
◆ 詩篇61-63
ユダ族から出た獅子(黙5:5)、ほふられた小羊(6節)と、使徒ヨハネはヨハネの黙示録5章でイエスを描写しました。この描写についてチャールズ・スポルジョンは、「なぜ、私たちの高貴な主が栄光の中に傷ついた姿で現れなければならないのだろう」と自問しました。その答えは「イエスの傷がイエスの栄光なのだ」でした。