まことの犠牲
エリックは善良で正しい人でした。警察官という職務は地域社会に対する奉仕だと考え、すべてをささげて忠実に任務に励みました。それが彼の信念だったということは、自分のロッカーのドアにヨハネの福音書15章13節のみことばを貼っていたことでも分かります。
主イエスはここで、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」とおっしゃっています。エリックにとって、これは絵に描いた餅のような理想ではありませんでした。これはまさに、彼の警察官としての責任感を表わしていました。そして、その強い責任感は、彼に殉職という究極の犠牲を支払わせました。自己犠牲の精神を身をもって示してくれたのです。
イエス・キリストは、ヨハネの福音書15章13節の鮮烈なみことばを語られてから数時間のうちに、ご自分のみことばを実行に移され、全うされました。二階の広間でこのみことばを語られたあと、イエスは、ゲツセマネで父なる神とひとつになって交わりを持たれました。そして捕らえられ、数々の非合法的な裁判を経て、あざけり笑う民衆の面前で十字架にはりつけになりました。
イエスは神の御子ですから、苦痛や拷問、残忍な仕打ちを逃れようと思えばそれができたでしょう。イエスは全くの無実でしたから、死刑になる筋合いなどありませんでした。しかし、真の犠牲のささげものであるイエスは、その原動力である愛にかき立てられるように、十字架に向かわれました。そのおかげで私たちは、イエスの犠牲とよみがえりを信じて受け入れさえすれば、自分の罪を赦していただけるようになったのです。
さあ、あなたのために死を選ばれた方を、あなたは信じますか。
小さな犠牲
イースターが近づくと、イエスはご自身を犠牲にして、私と神が和解できるようにしてくださったということに思いを巡らします。そして、私のためにすべてを犠牲にされたという事実に焦点を合わせるために、自分も小さな犠牲を払います。つまり、好きな物(または事)をひとつ、我慢するのです。好きな物(事)は我慢すると、それを求める気持ちがいっそう募ります。それは、イエスが私のためにどれほどの犠牲を払ってくださったかを気づかせてくれます。
私は「〇〇断ち」に成功したいので、無理のないものを断つようにしがちですが、それでも失敗します。そんな小さなことさえ完全にできない自分の無力さは、イースターの重要性を私に思い知らせてくれます。もし私たちが完全であるなら、イエスは死ななくてもよかったのです。
イエスがユダヤを巡っておられるときに出会った若い金持ちの男性は、自分の良い行いによって永遠のいのちを得ようとしていました。しかし、人間は誰ひとり、救いにふさわしいほどの良い人にはなれない、とご存知のイエスは、「それ(救い)は人にはできないことですが、神は、そうではありません」と語られました(マコ10:27)。
イエスの犠牲を思って、何かをあきらめることが良い人や尊い人を作るのではありませんが、その行為は、神以外に尊いお方は無いということを思い出させてくれます(18節)。これは、覚えておくべきことです。この尊いお方、完全な神が犠牲を払い、私たちが救われることを可能にしてくださいました。
誠実な友だち
◆ レビ記5-7
英単語の変遷を追跡する専門家は、2009年の新オックスフォード・アメリカ英語辞典の「ワード・オブ・ザ・イヤー」(今年の言葉)に「unfriend」(「友」を意味する単語に否定の接頭詞をつけた)を選びました。そしてその意味を、「フェイスブック」のようなインターネットのソーシャル・ネットワーキング上の「友だち」を、その設定から除外するということと定めました。
行為と結果
◆ エゼキエル書37-39
◆ Ⅱペテロ2
ポートランドを出発してシアトルに向かっていた旅客機がハイジャックされました。1971年11月24日、20万ドル(当時の7,200万円)の身代金を要求し、要求が受け入れられなければ飛行機を爆破すると脅した容疑者は、D.B.クーパーという男だと言われています。飛行機は、身代金受け取りのために着陸した後、再び離陸しました。そして男は飛行機の後方からパラシュートで飛び降り、夜空へと消えていったのです。今でも捕まらず、事件は未解決のままです。この事件により、不安と恐怖が信頼と安全に取って代わり、結果、空港警備体制は劇的に強化されました。クーパーの犯した罪は、すべての人たちに影響を及ぼしました。
愛する神のために
◆ 詩篇46-48
◆ 使徒28
数年前、私たちの教会では、数回の礼拝メッセージを通して、旧約聖書の幕屋について学びました。神はアカシヤ材で机を作って、その上に「供えのパン」を置くように命じられました(出25:23-30)。私は、この部分からメッセージを取り次ぐ準備として、人生初の断食を数日間行いました。「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」(申8:3)という真理を実際に体験したかったのです。自分の大好きな「食べる」という行為を、最愛の神のために絶ってみたかったのです。そして、断食をしている間、イエスがマタイの福音書6章16~18節で教えているとおりにしようと決めました。
「誰」と「どのように」
◆ 民数記28-30
◆ マルコ8:22-38
あなたは、キリストです。―マルコ8:29
福音書を読むたびに、自分とイエスの弟子たちは似ているなぁと思います。彼らは私と同じように鈍感で、イエスに「まだわからないのか」や「そんなに鈍いのか」と言われ続けなくてはなりませんでした(マルコ7:18参照)。けれども、やっとペテロが分かりました(一部だけですが…)。イエスが「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」とお尋ねになると、ペテロは「あなたは、キリストです」と答えたのです(8:29)。