人助けについて
放牧地が雪で覆われてしまうと、牧場で働く人たちは家畜の群れに手で餌をやらなければなりません。干し草を荷車やトラックから降ろして与えると、強いものが他を押しのけて前に出てきます。気が小さかったり身体の弱いものは、人が気遣ってやらないかぎり、なかなか餌にありつけません。
最後まで忠実に
英国のサロモン・キールダー・マラソン大会での出来事です。ある選手が32キロメートル地点まで走ったところで、コースをはずれてバスに乗りました。そしてゴール近くの森まで行くと、そこからレースに戻り、なんと3位に入賞しました。その選手は後に大会関係者に尋問され、疲れたからやったと答えたそうです。
キリストを信じる信仰というレースを走る私たちには、疲れきった運動選手の気持ちが痛いほど分かります。ヘブル人への手紙は、「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と、私たちを叱咤激励します(ヘブ12:1)。忍耐して走るためには、立ちふさがる罪を避け、後ろに引き戻そうとする重荷を捨てなければなりません。迫害の中を前進しなくてはならない場合さえあります(Ⅱテモ3:12)。
聖書は、疲れきって気力が失せ果ててしまわないように(ヘブ12:3)、キリストに焦点を合わせて集中しなさいと、私たちに促しています。私たちが、自分の問題に夢中になるのでなく、もっと主イエスに注意を払うならば、私たちは伴走してくださっているイエスに気づきます。このお方は、私たちがつまずく時には支え(Ⅱコリ12:9)、手本を示しながら励ましてくださいます(Ⅰペテ2:21-24)。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない」(ヘブ12:2)ようにするなら、私たちは力の源にしっかりとつながっていることができます。そして、主に忠実に人生のレースを走り切ることができます。
旅の道連れ
◆ エゼキエル書5-7
◆ ヘブル12
美しく壮大な景色を眺めながら、アイダホの山道を歩くのが、私は大好きです。歩きながら、トレッキングは人生の象徴だとよく思います。クリスチャンの人生は、主イエスとともに歩むことです。イエスは人生という旅の道連れであり、案内人です。イエスは「わたしについて来なさい」と声をかけて弟子を集め、イスラエルの地を端から端まで歩かれました(マタ4:19)。
精根尽き果て
◆ イザヤ書39-40
◆ コロサイ4
私が10代の頃、父と一緒に狩猟や釣りに出かけました。それは幸せな思い出ですが、一度だけヒヤリとする体験をしました。そのとき、私たちは車で高い山に登り、人里離れた場所にテントを張ってキャンプをしました。 そして、長い山道を下って、渓流釣りに出かけました。炎天下の中、私たちは長時間、魚を釣っていました。そろそろテントに戻る時間になって山道を登り始めたとき、父の顔がどんどん青ざめていきました。そして、めまいと吐き気にも襲われ、身体に少しも力が入らなくなりました。
聞いていますか
◆ Ⅱ歴代誌4-6
◆ ヨハネ10:24-42
あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。―民数記20:8
モーセはイライラし、怒っていました。悪いことは何でも自分のせいにされて、うんざりでした。彼は何年もの間、イスラエルの民を率いて難局を乗り越えてきました。また、トラブルを起こさないように、民のためにとりなしていました。しかし、その報酬は、さらなる悲しみでした。ついに堪忍袋の緒が切れて、「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか」と怒鳴りました(民20:10)。