変える力
多くの人はクイズが好きです。最近、同僚たちで聖書クイズをやってみました。私たちは間仕切りのない部屋に座って話していたので、近くにいた人には私たちの会話が聞こえました。それでノアの箱舟からサマリヤの女にいたるまで、クイズの質問の答えがあちらこちらから飛んできました。聖書クイズの質問にどんどん答えてくれるスタッフの声を聞くことは、何とも楽しいことでした。
おめかし
子どもたちが小さい頃、よそ行きの服を着せて教会に行っていたのですが、その準備は大変でした。その上、おめかしをして教会に行っても、10分後には、ひどい恰好になります。自分の息子が、クッキーの食べこぼしで汚れたシャツを半分ズボンから出し、靴のかかとをふみ、めがねをたれ下げて、教会の廊下を走り回っている姿をよく目にしました。「親はどこだ」と他人に思われそうな有り様でした。
旅立ち
僕の人生の救い主になってくださいと81年前の今日、9歳の少年がイエスに祈りました。少年の母は「クレアが今日歩みを始めた」と書き残しています。
疑い深い人たちの希望
会社でチャプレンとして働いていたので、様々な人と話す機会に恵まれました。キリスト教に不信感を抱いている人たちもいました。この人たちには大きく3つの壁がありました。
イヤーワーム
イヤーワームという言葉をご存知ですか。歌または音楽の一部分が頭の中で繰り返し再生され、耳から離れない現象のことです。人気のコマーシャルソングや「みんなのうた」から大流行した曲など。私にとって頭痛の種となったのは、ディズニーランドの「イッツ・ア・スモールワールド」でした。
ゆっくりと味わって
妻のマーティーは、「ジョー、もう少しゆっくり食べたら。食事は味わって食べるものよ」とよく言います。私は、彼女よりだいぶ早く食べ終えます。彼女は、ひと口ひと口味わって食べているからです。
文脈から離れて
無造作に投げやりな言葉を言い出した人に、友だちが励ましたり、アドバイスをしたりしました。ところが、その人は、単に面白がってある歌の歌詞を文脈から離れて口にしていただけでした。親身になって助けようとした人たちは、時間を無駄にしたのです。アドバイスも不必要でした。誤解を生む発言をした人が引き起こした問題は、今回のところ大して深刻ではありませんでしたが、人騒がせな言動につき合っている間に、もっと大切なことをしたり、本当に助けが必要な人に手を差し伸べることができたかもしれません。
人の関心を引くために文脈を無視した引用をしたり、議論に勝とうと屁理屈をこねたりする人がいます。さらに悪いのは、力関係で優位に立とうと、真理をゆがめる人です。その人たちは他人の人生のみならず、たましいにまで危害を及ぼします。
言葉を巧みに操って、相手を自分の思い通りに行動させようとする人、さらには、聖書のみことばを文脈を無視して用い、不正なことを正しいと相手に信じさせて行わせようとする人がいます。このような行為から身を守る手段は、ひとつしかありません。それは聖書を知ることです。私たちは、神が聖書の中で何を教えておられるか、きちんと知らなくてはなりません。イエスは、真理によって誘惑を退けることができました(ルカ4章)。私たちにも同じ真理が与えられています。神は聖書と聖霊をくださいました。これらが、私たちを導きます。私たちがだまされたり、道を逸脱させられたりしないように守ってくれます。
大いなることを期待せよ
ウイリアム・ケアリは平凡な男性でしたが、その信仰は非凡でした。18世紀の労働者階級に生まれ、靴作りを生業(なりわい)にしていましたが、そのかたわら、神学書や未知の民族を発見した探検家の日記などを読んでいました。神は、これらの書物を用いられました。ケアリは世界に福音を伝えなければならないと思うようになったのです。彼は宣教師としてインドに赴き、福音伝道の働きを始めました。同時に、インドのいくつかの方言を習得して、聖書をそれらの言語に翻訳しました。ケアリの宣教にかける熱意は「神に大いなることを期待せよ。神のために大いなることを企てよ」という彼自身の言葉に表れています。ケアリは、自分の言葉どおりに生き、何千人という人々が彼の生き方に影響されて海外に福音を伝える宣教師になりました。
聖書は、神を信じることで驚異的な結果をもたらした多くの人々について語っています。へブル11章33節~34節は「…信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ」た人々の存在を伝えています。
歴史が下るにつれて、このような英雄の数は累積され増えていきます。その一員になる可能性は、私たちにもあります。神は何でもおできになり、誠実なお方ですから、私たちは大いなることを企て、大いなることを期待できるのです。
ちょうど良い
この「デイリーブレッド」を執筆するのは私の大好きな仕事ですが、短いデボーションエッセーで100パーセント伝えたいメッセージを言い表すのは大変です。友人に「もう少し長く書けると良いのだけれど…」と愚痴をこぼすこともまったく無いわけではありません。
今年の聖書通読のスケジュールに従ってマタイの福音書を読んでいて、あることに初めて気づきました。キリストがサタンに誘惑されるところは(マタ4:1-11)、なんて短いのだろうと思ったのです。このマタイの記した、聖書の中心的な出来事のひとつは、ほんの半ページほどで記されています。短いけれど力強い聖書個所が、他にも思い出されました。詩篇23篇や、マタイの福音書6章9-13節にある主の祈りです。
伝えるべきことを伝えるために、言葉数が多くなくても良いことは明らかです。ただ、言葉を賢く選ばなければなりません。人生の他の分野にも同じことが言えます。時間やお金、空間なども多い少ないではなく、いかに賢く用いるかです。神のみことばは、神の国とその義を求める者の必要を満たすと断言しています(マタ6:33)。詩篇を書いたダビデもまた、「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」(詩34:10)と私たちを励ましてくれます。
もしも今日、「もう少しあれば…」と思っているなら、愚痴をこぼす前に考えてみましょう。あなたに「ちょうど良い」ように、神は与えておられるのではありませんか。