思い出すための歌
うれしいことに、みことばにメロディーをつけた無料のCDが郵送されてきました。何回か聴いたあと、いくつかの旋律が耳に残りました。間もなくすると、詩篇の数節をCDに頼ることなく自分で歌えるようになりました。
音楽は、それがなければ忘れてしまうような言葉や思考を思い出させてくれます。神はモーセに言われました。イスラエルの民は約束の地に入ると神を忘れてしまうだろう(申31:20)。自分たちの神を捨て、偶像に向かい、その結果、わざわいを招くだろう(16-18節)。そうなったときのために歌を作りなさい。歌を作ってイスラエルに教えなさい。以前、自分たちは神と親密であったこと、また、その親しい関係を損なったのは、自分たちの罪であることを思い出すことができるようにしなさい(31:19-22)。たぶん、「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である」(32:4)という神の品性を、イスラエルの民が思い出すようにしておくことが、最も重要だったのでしょう。
神は今日、何を覚えていて欲しいと、あなたにお望みでしょう。神の力でしょうか。神の神聖さでしょうか。それとも、神の愛、または、神のご誠実でしょうか。神の品性をたたえる賛美歌が心に思い浮かびますか。それを歌ってください。聖書は「詩と賛美と霊の歌とをもって…主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」と教えています(エペ5:19)。
たぐいまれな聖歌隊
◆ エレミヤ書47-49
往年の人気テレビ番組「ミッチと歌おう」のミッチ・ミラーが、2010年7月に亡くなりました。「さあ、一緒に歌いましょう」と皆を招いて歌っていた姿が偲ばれます。1960年代人気を博したこの番組は、親しみ深い楽曲をミッチ率いる男声合唱団が歌い、同時に歌詞が画面に映し出され、視聴者も一緒に歌えるというものでした。ロサンゼルス・タイムズ紙の記事によると、ミッチは合唱団の魅力が番組成功の鍵を握ると考えていたそうです。そして、「団員を新しく迎えるときには、背が高い人、低い人、禿げていたり、太っていたり…身近にいそうなタイプの人たちを選ぶことにしていました」とも言っていたそうです。多様な人たちが一体となることで美しい音楽が生まれ、誰もが合唱団の一員になれるように感じさせてくれたのです。
使徒パウロはローマ人への手紙15章で、「心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるため」(6節)に一体になろうと、クリスチャンたちに呼びかけました。旧約聖書のみことばを引用して、ユダヤ人も異邦人も、ともに神をほめたたえ(9-12節)ようと語りました。深い溝のあった人たちでも、キリストを通して現された神のあわれみに対し、ともに感謝をささげることができます。こうして、ひとつになることなど不可能と思われた人たちの一致が、 現実のものとなりました。私たちもこの人たちのように、「聖霊の力によって」(13節)、喜びと平安、そして望みに満たされます。
私たちはたぐいまれな聖歌隊の一員です。「さあ、いっしょに歌いましょう。」ともに歌えるとは、なんという光栄でしょう。
キリストを信仰する人たちの一致は、キリストとひとつとなることから始まる。
この方は、どういう方なのか
◆ Ⅱサムエル記1-2
◆ ルカ14:1-24
祝福あれ。主の御名によって来られる王に。―ルカ19:38
やじ馬が、ほこりっぽい土道の両側にぎっしり立っているのを想像してください。あなたの後ろにいる女の人は、つま先立ちで向こうから来る人を見ようとしています。遠くの方に、ロバに乗った男性がちらりと見えます。その人が近づくと、人々は自分の上着を路上に放り投げます。突然、後ろの方で木が裂ける音がしました。ひとりの男性がしゅろの小枝を次々に切り落とし、人々はそれをロバの行く手に敷いていきました。
永遠の賛美
◆ Ⅰサムエル記15-16
◆ ルカ10:25-42
見よ。わたしは、すべてを新しくする。―黙示録21:5
ふたりの幼い兄弟は毎週日曜日の礼拝で最前列に座り、自分たちの父親が会衆賛美をリードするところを見ていました。ある晩、父は子どもたちをベッドに寝かしつけると、ひとりが泣いているのに気づきました。どうしたのかと聞いても息子は口ごもっています。しかし、ついに口を開きました。「パパ、聖書には僕たちは天国で永遠に神さまを賛美するって書いてあるよ。そんなの長過ぎるよ!」彼は天国が、父親がリードしているような賛美が長々とつづいている場所だと想像したので、すごく退屈だと思ったのです。
神のディスプレイパネル
◆ 申命記1-2
◆ マルコ10:1-31
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。―詩篇19:1
ハイテク映像全盛の時代にあって信じられないかもしれませんが、日曜学校の教師の中には、今でも聖書の物語を伝える最善の方法はフェルト板だという人がいます。私が子どもの頃の日曜学校では、表面にフェルトを張った板が使われていました。私の日曜学校の先生たちは、このフェルト板にイエスやダビデ、ダニエルなどの聖書の登場人物を貼り付けて、聖書物語のエッセンスを美しい描写とともに伝えてくれました。
おびえた涙
◆ 民数記34-36
◆ マルコ9:30-50
巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。―黙示録5:4
ヨハネ(イエスの愛された弟子であり偉大な使徒のひとり)は、泣き出してしまいました。
彼は獄中で幻を見ました。そこは、神の御座が置かれた部屋で、未来の出来事が明らかにされていました(黙5:1-12)。ヨハネは、天国におられる神が、封印された巻き物を持っておられるのを見ました。神の臨在の栄光を見つめつつも、ヨハネが泣いた理由は、その巻き物を開ける者がひとりもいなかったからです。神の最後の啓示を明らかにして、歴史というドラマを完結させる者がいなかったのです。
ヨハネは使徒として、罪の力を見てきました。また、罪を打ち破るイエスの人生と死も目撃しました。そして、イエスの昇天も見ました。しかし今、巻き物を開いて罪を永遠に打ち負かすことのできる者はいません(4節)。ヨハネはおびえていました。