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潤いの みことば

子どもの頃、家族でネバダ州を横断する旅をしました。ネバダ州は砂漠で、砂漠特有の雷雨があります。私たちは、それが大好きでした。稲光と雷鳴に伴って、見渡す限りの熱い砂の上に巨大な幕が下りるように雨が降ります。冷たい水はあたり一面をおおい、すべてをリフレッシュさせてくれました。

特別な雨

魚とオタマジャクシ、そして蜘蛛に共通するのは、雨のように空から降って来たことがあるということです。オーストラリアのラジャマヌという町では魚が、石川県七尾市ではオタマジャクシが降りました。クモはアルゼンチンのサンベルナルド山に降りました。科学者たちは、これらの珍しい現象には風が関係していると推測しますが、詳しくは未だ解明されていません。

いのちを与える雨

熱波のあった1891年、「起爆家」として知られていたR.G.ダイレンフォースは、絶対に雨を降らせてやろうとテキサス州ミッドランドに降り立ちました。彼は仲間たちと爆発性の気体で膨らませた巨大な風船を放ったり、大砲を打ち上げたり、大量のダイナマイトを爆破させたりして、地と空を爆音で震わせました。少しだが雨が降ったと言う人も幾人かはいましたが、大多数の人は、ただうるさかっただけだと言いました。爆発は音のインパクトこそありましたが、何の効果もありませんでした。

火と雨

山火事がコロラドスプリングス近郊の美しい渓谷で猛威をふるい、家屋数百棟とさまざまな野生動物が暮らす森林を呑み込みました。雨を降らせてくださいという祈りが、全米でささげられました。人々は、火が鎮まり、これ以上被害が広がらないように、また消防士が休息できるようにと祈りました。このとき、ある人たちの雨乞いの祈りに条件がついていたのが印象的でした。神のあわれみによって、雷雨以外の雨をくださいというものです。稲妻による更なる火災の発生を懸念したからです。

雨に想う

新しく植えたペチュニアが、可哀想なことに土砂降りの雨に打たれてしまいました。できることなら、軒下に避難させてやりたいぐらいです。雨がやんだとき、ペチュニアの小さな花々は、滝のように降り注いだ雨水の重さでうなだれ、弱々しく悲しげです。しかし数時間経つと、それらはぴんと上を向き、翌日には、まっすぐに力強く立っていました。

なんという変容でしょう。雨水はペチュニアの頭を叩いたあと、枝葉から滑り落ち、土壌の中に浸み込みます。そして、ペチュニアの茎を通ってそれを潤し、まっすぐに立ちあがる力を与えます。

私は日光が好きなので、雨によって庭の植物が駄目になってしまうのが嫌いです。私には、雨を否定的にとらえる傾向がありますが、それは間違いです。干ばつを体験した人なら、雨が祝福であることを知っています。雨は地を潤し、良い人の上にも、悪い人の上にも、地の恵みを与えてくれます(マタ5:45)。

雨のみならず、人生の嵐に激しく襲われて、その大きな力にくじけそうになったときも同じです。「雨」は、私たちの敵ではありません。私たちの慈しみ深い神が嵐をお許しになったのですから、私たちをより強くするために、それが必要なのでしょう。神は、雨で私たちの外側を打たれますが、私たちの内面を強くされます。そういうわけで、私たちは、まっすぐに強く立ち上がることができます。